『太平記』 巻二十一「先帝崩御の事」 舞台:吉野山(奈良県) 成立:1370年頃 作者:小島法師ほか(諸説) ―――――――――――――――――――――――― 【原文】 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。 【現代語訳(抄訳)】 建武三年(一三三六年)、足利尊氏が京を制圧して光明天皇を立てると、後醍醐天皇はひそかに京を脱出し、大和の国の吉野に逃れて、朝廷を開かれた。こうして、京の北朝と吉野の南朝、二つの朝廷が並び立つ南北朝の時代が始まった。 吉野は、山深く、桜の名所として知られる地である。帝は、金峯山寺の近くの吉水院を仮の御所とされた。しかし、楠木正成も新田義貞も戦死し、頼みとする武将たちは次々と世を去っていった。 延元四年(一三三九年)八月、帝は病に伏された。重くなったので、帝は、皇子の義良親王に位を譲り、枕元に集まった臣下たちに、最後の遺言をされた。 「私の命が尽きても、ただ生々世々の妄念となるのは、朝敵をことごとく滅ぼして、天下を太平にしようと思うことだけである。私が亡くなった後は、第七の宮(義良親王)を天子の位につけ申し上げて、賢士忠臣が事を謀り、義貞・義助の忠功を賞して、その子孫を取り立てよ。これに背くならば、君も継体の君ではなく、臣も忠烈の臣ではない。 私の亡骸は、たとえ南山(吉野)の苔の下に埋もれても、魂は常に北の方の京の空を望もうと思う」 そうおっしゃって、左の手には法華経の五の巻を持ち、右の手には御剣を按じて、八月十六日の丑の刻、ついにお亡くなりになった。御年五十二であった。 帝の御陵である塔尾陵は、如意輪寺の裏山にあり、歴代の天皇陵が南を向いているのとは異なり、京の方角である北を向いて築かれている。 ―――――――――――――――――――――――― 地点メモ:後醍醐天皇が南朝を開き、この地で崩御する。 出典作品:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98