天智天皇の二年八月、唐の軍船百七十艘が白村江に陣を連ねていた。日本の水軍が到着して唐軍と戦ったが、利あらず退いた。唐軍は陣を固めて守った。
翌日、日本の諸将と百済王は、天候を見定めることもせず、「我らが先を争って攻めかかれば、敵はおのずと退くだろう」と話し合った。そして隊列の乱れた日本の兵を率いて、陣を固めた唐の軍勢に突き進んだ。すると唐軍は左右から船を寄せて挟み撃ちにした。日本軍はたちまち敗れ、水に落ちて溺れ死ぬ者が多く、船は舳先をめぐらすこともできなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが、ついに戦死した。百済王豊璋は数人とともに船に乗って高句麗へ逃れた。
九月、百済の州柔城も降伏した。百済の人々は「百済の名は今日で絶えた。先祖の墓にも二度と参ることはできない」と嘆き合い、日本へ渡る船に乗った。
敗戦の翌年、天智三年、唐・新羅の来襲に備えて、対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽(のろし台)を置いた。また筑紫には大きな堤を築いて水を貯えさせた。これを水城という。さらに翌年には、百済からの亡命貴族に命じて、長門国に城を築かせ、筑紫国には大野城と椽城の二つの城を築かせた。大宰府を守るこれらの防衛線は、今も福岡の地に土塁の跡を残している。