大垣

「大垣」(結び)
原文
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

露通もこの港(敦賀)まで出迎えに来て、美濃の国へと同行する。馬に助けられて大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばしてやって来て、如行の家に集まった。前川子、荊口父子、そのほか親しい人々が、昼も夜も訪ねてきて、生き返った人に会うかのように、喜んだり、いたわったりしてくれる。

旅の疲れもまだ取れないうちに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗って、

「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」(蛤の蓋と身が別れるように、私も親しい人々と別れて、伊勢の二見へと旅立っていく。ちょうど秋も去っていこうとしている)

*

元禄二年三月二十七日に江戸深川を旅立った芭蕉は、約五か月後の八月二十日すぎ、美濃の国の大垣にたどり着いた。ここで、『おくのほそ道』の旅は結ばれる。

最後の句「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」は、旅立ちの句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と、見事に呼応している。「行く春」に始まり「行く秋」に終わる。春の別れで始まった旅が、秋の別れで終わるのである。そして、蛤の名産地である伊勢の桑名、伊勢の「二見」と、蓋と身の「二身」を掛けて、新しい旅立ちを告げている。旅の終わりは、また次の旅の始まりでもあった。

芭蕉は、この旅の後も、推敲を重ね続け、『おくのほそ道』が現在の形にまとめられたのは、旅から五年後の元禄七年(一六九四年)ごろとされる。その年の秋、芭蕉は大坂で病に倒れ、「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」という句を残して、五十一年の生涯を閉じた。

大垣市の水門川のほとりには、「奥の細道むすびの地記念館」があり、船町港跡には、芭蕉と、見送る人々の像が立っている。

大垣 結びの地。「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」。
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