旅の僧である西行法師は、仁安三年(一一六八年)の秋、讃岐の国の白峯にある、崇徳院の御陵を訪ねた。崇徳院は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、都へ帰ることもかなわず、この地で亡くなられた帝である。
御陵は、松や柏が生い茂る深い山の中にあり、荒れ果てて、訪れる人もない。西行は、帝の生前の栄華を思い、そのあまりに寂しいお姿に涙を流して、夜通し経を読み、歌を詠んだ。「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」。
すると、夜も更けたころ、「円位、円位」と、西行の法名を呼ぶ声がした。見ると、痩せ衰えた、異様な姿の人が立っている。崇徳院の亡霊であった。
院は、西行の歌に応えて、「私は、この数年、魔道に落ちて、天下に祟りをなしてきた。平治の乱を起こさせたのも、私の仕業である」と語った。西行は、「帝の位にあった方が、なぜそのような恐ろしい道に迷われるのですか」と、仏の道を説いて、院を諫めた。
院は、激しい怒りをあらわにして、保元の乱の恨みを語った。「弟の後白河に位を奪われ、この島に流されて、五部の大乗経を写して都の寺に納めてほしいと願ったのに、それさえ拒まれた。私は、舌を噛み切った血で、その経に『日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん』と書きつけて、海に沈めたのだ」。
院の顔は朱を注いだように赤くなり、髪は逆立ち、目は吊り上がって、恐ろしい魔王の姿となった。院は、「平家の一門も、やがて海の藻屑とさせてやる」と言い放った。すると、一陣の風が吹いて、院の姿はかき消えた。
その後、院の言葉どおり、平家は壇ノ浦で滅んだ。西行は、この夜のことを人に語ることはなかったという。