寿永二年(一一八三年)五月、平維盛を大将とする十万余騎の平家の大軍は、北陸で挙兵した木曽義仲を討つために、加賀と越中の境にある砺波山に陣を構えた。
義仲は、わずか五万余騎。まともに戦っては勝ち目がない。義仲は、「平家は大軍だから、きっと山を越えて広い所に出て、力で押そうとするだろう。その前に、山の中に誘い込んで、険しい所に追い落としてやろう」と考えた。
義仲は、昼の間は、わざと小競り合いを仕掛けて時を稼ぎ、白旗を立て並べて、源氏の軍勢が大勢いるように見せかけた。平家は、「源氏の大軍が待ち構えている。山中の倶利伽羅峠で馬を休めよう」と、そのまま峠に陣を張った。
夜になると、義仲の軍勢は、平家の背後と左右に回り込み、四方から一斉に鬨の声を上げた。平家の兵たちは、暗闇の中で慌てふためき、逃げ場を求めて、倶利伽羅の谷へとなだれを打って落ちていった。
親が落ちれば子も落ち、兄が落ちれば弟も続く。馬の上には人が、人の上には馬が重なり、あれほど深い谷一つを、平家の兵七万余騎で埋め尽くしてしまった。谷の底からは岩清水が流れ、血の川となった。人々はこの谷を「地獄谷」と呼んだ。
後の世の『源平盛衰記』には、義仲が数百頭の牛の角に松明を結びつけ、平家の陣に突入させたという「火牛の計」の話が語られている。倶利伽羅峠の戦いに大勝した義仲は、勢いに乗って都へと攻め上り、平家は都を捨てて西国へ落ちていくことになった。