屋島の戦いで、日も暮れかかったころ、沖の平家の船の中から、一艘の小舟が、渚に向かって漕ぎ寄せてきた。舟には、柳の五衣に紅の袴を着た、年は十八、九ほどの美しい女房が乗っていて、竿の先に、紅地に金の日の丸を描いた扇を挟んで、船端に立て、陸の源氏に向かって手招きをした。「この扇を射てみよ」という挑戦である。
義経は、下野の国の住人、那須与一宗高を呼び寄せた。与一は二十歳ほどの若者である。「射損じれば、味方の恥になります。確実に射る者にお命じください」と辞退したが、義経は「鎌倉を出て西国へ向かう者は、義経の命令に背いてはならない」と厳しく命じた。
与一は、黒い馬に乗って、海の中へ一段ほど乗り入れた。扇までの距離は七段(約七十メートル)ほどもある。ころは二月十八日の午後六時ごろ、折から北風が激しく吹いて、岸を打つ波も高い。舟は揺り上げられ揺り下ろされて漂い、扇も竿の先に定まらずひらめいている。沖には平家が船を並べて見物し、陸では源氏が馬の轡を並べてこれを見ている。
与一は目を閉じて、「南無八幡大菩薩、我が国の神々、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてください。射損じたならば、弓を切り折り自害して、二度と人に顔を合わせるつもりはありません」と祈った。
目を開くと、風も少し弱まって、扇も射やすくなっていた。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞って、ひょうと放った。矢は長く鳴り響いて、扇の要際一寸ほどを射切った。鏑矢は海へ入り、扇は空へ舞い上がった。春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散っていった。夕日の輝く中に、真っ赤な日の丸の扇が、白波の上に漂い、浮いたり沈んだり揺られるのを、沖では平家が船端を叩いて感嘆し、陸では源氏が箙を叩いてどよめいた。