勝浦付大坂越

巻十一「勝浦付大坂越」

元暦二年(一一八五年)二月、屋島の平家を攻めるため、源義経は摂津の渡辺の港から船出しようとした。ところが、激しい北風が吹き荒れて、船頭たちは「こんな大風では、とても船は出せません」と言う。

軍奉行の梶原景時は、船に逆櫓(船首にも櫓をつけて後退できるようにする装置)をつけようと提案したが、義経は「初めから逃げる用意をしてどうする」とはねつけた。二人の間には、このとき深い溝ができたという。

義経は、「大風のときこそ、敵も油断している。今こそ船を出せ」と、嫌がる船頭を脅しつけて、わずか五艘、百五十騎ばかりで、夜中に船を出した。普通なら三日かかるところを、追い風に乗って、わずか四時間ほどで阿波の国の勝浦に着いた。

義経が、岸にいた者に「ここは何という所か」と尋ねると、「勝浦です」と答える。義経は「なんと縁起のいい名だ。戦に勝つ浦とは」と喜んだ。

その地の武士、近藤六親家を案内役に取り込んで、平家の様子を聞き出すと、屋島の平家は、兵の多くを伊予の河野氏討伐に向かわせていて、手薄になっているという。義経は、「今こそ好機」と、夜を徹して阿波と讃岐の境の大坂越を越え、屋島へと急いだ。

途中、京から屋島の平宗盛のもとへ手紙を届ける使者に出会ったので、義経は素知らぬ顔で道案内を頼み、その手紙を奪い取った。中には、「義経は勇猛な者なので、大風であっても押し渡ってくるでしょう。ご用心ください」と書いてあった。義経は、「これこそ天の与えたものだ」と言って、その使者を木に縛りつけて、屋島へと向かった。

阿波の勝浦(今の徳島県小松島市付近)には、義経が上陸した地として、今も伝承が残っている。

勝浦 義経がわずか五艘で嵐の海を渡って上陸し、夜を徹して屋島へ急行する。
← 前坂落