二十 虫の研究 蟻

怪談 現代語訳
原文現代語訳

一

夜の嵐が過ぎたあとの今朝の空は、澄みきった、まばゆいばかりの青である。空気――かぐわしい空気――は、強風に折られて散らばった無数の松の枝から放たれる、甘い松やにの香りに満ちている。近くの竹やぶでは、法華経をたたえる鳥の笛のような声が聞こえる。そして南風のために、あたりはたいそう静かである。長く遅れていた夏が、いまこそ本当にやってきた。日本の風変わりな色をした蝶がひらひら舞い、蝉はじいじいと鳴き、蜂はぶんぶんうなり、ぶよは日の光の中で踊り、そして蟻はいたんだ住まいを忙しく修繕している……。わたしは日本の句を思い出す。

行く方なき
蟻の住まひや
五月雨
(行くあてもない、蟻の住まいよ。五月雨が降りつづいている)

けれども、わたしの庭のあの大きな黒い蟻たちは、少しも同情を必要としていないように見える。大木が根こそぎにされ、家々が吹き飛ばされて粉々になり、道が跡かたもなく押し流されているあいだに、蟻たちは想像もつかないやり方で嵐を乗りきったのである。それでいて台風の前には、地下の町の門をふさいでおくことのほかには、目に見える用心は何もしなかった。そして今日の蟻たちの勝ちほこった働きぶりを見ていると、わたしは蟻についての一文を試みてみたくなる。

わたしの論考の前置きとして、日本の古い文学から何か――情緒的な、あるいは形而上的な何か――を引きたかった。しかし日本の友人たちがこの題材についてわたしのために見つけてくれたものは、いくらかのつまらない詩歌を除けば、みな中国のものであった。この中国の資料はおもに奇妙な話からなっていた。そしてそのうちの一つは――ほかによいものがないので――引用する値打ちがあるように思う。

中国の台州の国に、何年ものあいだ毎日、ある女神を熱心に拝んでいる信心深い男がいた。ある朝、男がお勤めをしていると、黄色い衣を着た美しい女が部屋に入ってきて、男の前に立った。男はたいそう驚いて、何の用か、なぜ案内も請わずに入ってきたのかと尋ねた。女は答えた。「わたしは女ではありません。わたしはあなたがあれほど長いあいだ、あれほど誠実に拝んできた女神です。そしてあなたの信心がむだではなかったことを示すために、いまやってきたのです……。あなたは蟻の言葉を知っていますか」。拝んでいた男は答えた。「わたしはただの卑しい生まれの無学な者で――学者ではありません。すぐれた人の言葉さえ何も知りません」。この言葉を聞くと女神はほほえんで、ふところから香合のような形の小さな箱を取り出した。箱を開けて指をひたし、そこから何か膏薬のようなものをとって、男の耳に塗った。「さあ」と女神は男に言った。「蟻を探してごらんなさい。見つけたら、かがんで、蟻の話によく耳をすますのです。その話がわかるでしょう。そして何かあなたのためになることを聞くでしょう……。ただ、蟻を驚かせたり、困らせたりしてはいけないことを忘れずに」。そう言うと女神は消えてしまった。

男はすぐに蟻を探しに出かけた。家の敷居をまたぐかまたがないかのうちに、家の柱の一本を支えている礎石の上に、二匹の蟻がいるのが目にとまった。男はその上にかがみこんで、耳をすました。すると驚いたことに、蟻の話し声が聞こえ、話していることがわかった。「もっと暖かい所を探そうよ」と一匹の蟻が言った。「どうしてもっと暖かい所なんだい」ともう一匹が尋ねた。「ここのどこがいけないのさ」。「下が湿っぽくて寒すぎるんだよ」と最初の蟻が言った。「ここには大きな宝が埋まっていて、そのまわりの地面は日が当たっても暖まらないんだ」。それから二匹の蟻は一緒に去っていき、聞いていた男は鋤を取りに走った。

柱のあたりを掘ってみると、まもなく金貨のいっぱい詰まった大きな壺がいくつも見つかった。この宝を見つけたことで、男はたいそうな金持ちになった。

その後、男はたびたび蟻の話を聞こうとした。しかし二度と蟻の話し声を聞くことはできなかった。女神の膏薬は、ただ一日だけ、男の耳を蟻の不思議な言葉に開いてくれたのである。

さて、わたしもあの中国の信者と同じように、自分がたいそう無知な者であり、当然、蟻の話を聞くことなどできないと白状しなければならない。けれども、科学の妖精がときおり魔法の杖でわたしの耳と目に触れてくれる。するとしばらくのあいだ、わたしは聞こえないものを聞き、見えないものを見ることができるのである。

二

キリスト教徒でない民族がわれわれよりも倫理的にすぐれた文明を生み出したと言うことが、ある方面では悪いことだと見なされるのと同じ理由で、わたしが蟻について言おうとすることを喜ばない人たちもいるだろう。しかし、わたしなどが望めるよりも比べものにならないほど賢い人々の中には、キリスト教の恩恵とは関わりなく、昆虫や文明について考える人たちがいる。そしてわたしは、新しい『ケンブリッジ博物学』に勇気づけられる。それには、蟻についてデイヴィッド・シャープ教授の次のような言葉が載っている。

「観察によって、これらの昆虫の生活に最も驚くべき現象が明らかにされてきた。実際、蟻は多くの点で、社会をなして共に生きる技術を、われわれ人類よりも完全に身につけており、社会生活を大いに便利にする産業や技術のいくつかを、われわれに先んじて獲得していた、という結論はほとんど避けがたい」

専門の訓練を受けた学者のこの率直な言葉に異を唱える事情通は、ほとんどいないだろうと思う。現代の科学者は、蟻や蜂について感傷的になりがちではない。しかし科学者は、社会の進化に関しては、これらの昆虫が「人間を超えて」進んでいるように見えることを、ためらわずに認めるだろう。誰からもロマンティックな傾向があるとは言われないハーバート・スペンサー氏は、シャープ教授よりもかなり先まで進んで、蟻がまったく本当の意味で、経済的にも倫理的にも人類より進んでいること――その生活が完全に利他的な目的にささげられていること――を示している。実際、シャープ教授は、蟻へのほめ言葉に、いくらか必要以上に次のような用心深い但し書きをつけている。

「蟻の能力は人間の能力とは違う。それは個体の幸福よりもむしろ種の幸福にささげられており、個体はいわば共同体の利益のために犠牲にされ、あるいは専門化されているのである」

――そこにはっきりと含まれている意味――個体の向上が全体の幸福のために犠牲にされるような社会状態には、望ましくないところが多いという意味――は、実際の人間の立場からすれば、おそらく正しいだろう。人間はまだ不完全にしか進化しておらず、人間の社会は人間がさらに個性化することによって得るところが多いからである。しかし社会性の昆虫に関しては、この暗黙の批判には疑問の余地がある。ハーバート・スペンサーは言う。「個体の向上とは、個体を社会的協力にいっそうよく適したものにすることである。そしてこれは社会の繁栄に役立つので、種族の維持に役立つ」。言いかえれば、個体の価値は社会との関係においてしかありえない。そしてこれを認めるなら、その社会のために個体を犠牲にすることが善か悪かは、その構成員がさらに個性化することによって、社会が何を得、何を失うかにかかっているに違いない……。けれども、まもなく見るように、蟻の社会の状態で最もわれわれの注意に値するのは倫理的な状態である。そしてそれは人間の批判を超えている。というのも、それはスペンサー氏が「利己と利他とが調和して、一方が他方に溶けこんでしまうような状態」と述べた道徳的進化の理想を、実現しているからである。つまり、ありうる唯一の喜びが、無私の行いの喜びであるような状態である。あるいは、またスペンサー氏の言葉を引けば、昆虫の社会の活動は、「個体の幸福を共同体の幸福のあとにまったく完全に後まわしにするので、個体の生活は、社会生活に十分な注意を払えるようにするのに必要な限りでしか顧みられないように見える……個体は、その活力を保つのにちょうど必要なだけの食物と休息しかとらない」活動なのである。

三

読者は、蟻が園芸と農業を営んでいること、きのこの栽培に巧みであること、(現在知られている限りで)五百八十四種もの動物を家畜にしていること、固い岩にトンネルを掘ること、子どもたちの健康を危うくするかもしれない大気の変化に備える方法を知っていること、そして昆虫としては並はずれて長生きであること――より高度に進化した種の蟻は、かなりの年数を生きる――を、ご存じのことと思う。

けれども、わたしが話したいのは、とくにこうしたことではない。わたしが話したいのは、蟻のおそるべき礼節、恐ろしいほどの道徳についてである。われわれの最も畏れ多い行いの理想でさえ、蟻の倫理には――時間で進歩をはかるとすれば――なんと何百万年も及ばないのである……。「蟻」と言うとき、わたしは最も高い型の蟻のことを言っているのであって、もちろん蟻の一族全体のことではない。すでに約二千種の蟻が知られていて、その社会組織には、たいそうさまざまな程度の進化が見られる。生物学的に最も重要で、また倫理の問題との奇妙な関わりにおいても劣らず重要な、ある種の社会現象は、最も高度に進化した蟻の社会のあり方の中でしか、よく研究することができないのである。

蟻の長い一生における相対的な経験の価値について、近年これほど多くのことが書かれてきたあとでは、蟻に個性があることをあえて否定しようとする人はほとんどいないだろうと思う。この小さな生き物が、まったく新しい種類の困難に立ち向かって打ち勝ち、経験にまったくない状況に適応する知恵は、かなりの独立した思考力を証明している。しかし少なくともこれだけは確かである。蟻には、純粋に利己的な方向に働きうるような個性はない――わたしは「利己的」という言葉を、ふつうの意味で使っている。欲ばりな蟻、好色な蟻、七つの大罪のどれか一つでも、あるいは小さな許される罪でさえ犯しうる蟻というものは、想像もできない。同じように、もちろん、ロマンティックな蟻、観念的な蟻、詩的な蟻、形而上的な思索にふける蟻も想像できない。どんな人間の心も、蟻の心の絶対的な即物性に達することはできないだろう――いまのような造りの人間には、誰一人として、蟻の心のように非のうちどころなく実際的な心の習慣を育てることはできないだろう。しかしこの、このうえなく実際的な心は、道徳上の誤りを犯すことができないのである。蟻に宗教的な観念がないことを証明するのは、おそらくむずかしいだろう。しかし、そういう観念が蟻にとって何の役にも立たないことは確かである。道徳上の弱さを持ちえない存在は、「霊的な導き」を必要としないのである。

蟻の社会の性格や、蟻の道徳の本質を、われわれはぼんやりとしか思い描くことができない。そしてそうするためにさえ、人間の社会と人間の道徳の、いまだありえない何かの状態を想像してみなければならない。そこで、絶え間なく、猛烈に働いている人々――それがみな女のように見える人々――でいっぱいの世界を想像してみよう。この女たちは誰一人として、自分の力を保つのに必要な量より一粒でも多く食べるよう説きふせられたり、だまされたりすることはない。そして誰一人として、神経系をよい状態に保つのに必要な時間より一秒でも長く眠ることはない。そして女たちはみな特別な造りになっていて、ほんのわずかでも不必要な欲を満たせば、何かしら体の働きに狂いが生じてしまうのである。

この女の働き手たちが毎日行う仕事には、道路づくり、橋かけ、木材の伐採、数えきれない種類の建築、園芸と農業、百種類もの家畜の飼育と世話、いろいろな化学製品の製造、数えきれない食料の貯蔵と保存、そして種族の子どもたちの世話が含まれている。この労働はみな共同体のために行われる――その市民は誰一人として、「公共のもの」としての財産のほかには、「財産」のことを考えることさえできない。そして共同体のただ一つの目的は、その子どもたちを養い育てることである――その子どもたちはほとんどみな女の子である。幼い時期は長い。子どもたちは長いあいだ、無力であるばかりか形もさだまらず、そのうえたいそうひ弱なので、ほんのわずかな温度の変化からも、たいそう注意深く守ってやらなければならない。幸いなことに、乳母たちは健康の法則を心得ている。乳母の一人一人が、換気、消毒、排水、湿気、そしてばい菌の危険について知っておくべきことを、すべて知りつくしている――ばい菌は、乳母たちの近眼の目には、われわれの目に顕微鏡を通して見えるのと同じくらいよく見えるのかもしれない。実際、衛生に関することはすべてよく理解されているので、乳母が自分のまわりの衛生状態について間違いをすることは決してない。

この絶え間ない労働にもかかわらず、働き手は誰一人として身なりをかまわずにいることはない。みなきちょうめんに身ぎれいにしていて、一日に何度も身づくろいをする。しかし働き手はみな、生まれつき手首にこのうえなく見事な櫛とブラシがついているので、身づくろいに時間をむだにすることはない。自分の体をきちんと清潔にしておくばかりでなく、働き手たちは子どもたちのために、家や庭もまた非のうちどころなく整えておかなければならない。地震、噴火、洪水、あるいは死にものぐるいの戦争ででもない限り、毎日のちり払い、掃き掃除、こすり洗い、消毒の日課を中断することは許されない。

四

さて、もっと不思議な事実に移ろう。

この絶え間ない労働の世界は、ウェスタの巫女の世界以上に純潔な世界である。たしかに、そこにはときおり雄の姿も見られる。しかし雄が現れるのは決まった季節だけで、働き手とも仕事ともまったく関わりがない。どの雄も、働き手に話しかけようなどとはしない――おそらく、共通の危険にさらされた非常の場合を除いては。そしてどの働き手も、雄と話をしようなどとは思わない――というのも、この奇妙な世界では、雄は劣った存在で、戦うことも働くこともできず、ただ必要悪として大目に見られているにすぎないからである。ある特別な階級の雌――種族の選ばれた母たち――だけが、決まった季節のごく短いあいだ、身をかがめて雄と交わる。しかし選ばれた母たちは働かない。そして夫を受け入れなければならない。働き手は雄とつきあうことなど夢にも考えられない――それは、そのようなつきあいがこのうえなく浮ついた時間のむだを意味するからでもなければ、働き手がどうしてもすべての雄を言いようもなく軽蔑しているからでもない。働き手は結婚することができないからである。実際、働き手のうちのいくらかは単為生殖ができ、父親を持たない子どもを産む。しかし一般には、働き手が本当に女らしいのはその道徳的本能においてだけである。働き手は、われわれが「母性的」と呼ぶやさしさ、忍耐、先見の明をすべて持っている。しかしその性は、仏教の伝説の竜女の性のように、消えてしまっているのである。

捕食者や国家の敵から身を守るために、働き手たちは武器をそなえている。そのうえ、大きな軍隊によって守られている。兵士たちは働き手よりもずっと大きいので(少なくともある共同体では)、一目見ただけでは同じ種族とは信じがたいほどである。自分の守る働き手の百倍も大きな兵士も珍しくない。しかしこの兵士たちはみなアマゾン――もっと正確に言えば、半ば雌――である。兵士たちはたくましく働くことができるが、おもに戦うことと重いものを引くことに向いた造りになっているので、その役に立つのは、技よりも力の要る方面に限られている。

〔なぜ雄ではなく雌が、進化の上で兵士や労働者に専門化されたのかは、見かけほど単純な問題ではないかもしれない。わたしには答えられないことは確かである。しかし自然の経済がこの問題を決めたのかもしれない。多くの生物の形態において、雌は大きさでも活力でも雄をはるかにしのいでいる。おそらくこの場合も、完全な雌がもともと持っていた生命力のより大きな蓄えのほうが、特別な戦士階級を発達させるのに、より速く、より効果的に利用できたのだろう。子を産む雌であれば命を与えることに費やされるはずのすべての力が、ここでは攻撃力や労働力の進化に振り向けられたように見える。〕

本当の雌――選ばれた母たち――は、ほんのわずかしかいない。そして女王のように扱われる。たえず、うやうやしくかしずかれているので、何かを望んで口に出すこともめったにないだろう。母たちは生きていくうえでのあらゆる心配から解放されている――子を産む務めを除いては。夜も昼も、ありとあらゆる手立てで世話をされる。ありあまるほど豊かに養われるのは、母たちだけである。子孫のために、母たちはまさに王者のように食べ、飲み、休まなければならない。そしてその生理的な専門化のおかげで、そうした贅沢を思いのままにすることができる。母たちはめったに外に出ないし、出るときも必ず強い護衛がつく。不必要な疲れや危険にさらされることは許されないからである。おそらく、外に出たいという気持ちもあまりないのだろう。種族の活動のすべてが母たちを中心にめぐっている。種族のすべての知恵と労働と倹約は、ひたすらこの母たちとその子どもたちの幸福に向けられているのである。

しかし種族のいちばん最後の、いちばん低い位にあるのが、この母たちの夫――必要悪――つまり雄である。すでに述べたように、雄は決まった季節にだけ現れ、その命はたいそう短い。王家の婚礼に定められていながら、高貴な血筋を誇ることさえできないものもいる。というのも、それは王家の子ではなく、処女から生まれた――単為生殖の――子であり、とくにそのために劣った存在、何か不可思議な先祖返りの偶然の産物なのである。しかし、どんな種類の雄であれ、共同体はほんのわずかしか大目に見ない――選ばれた母たちの夫として仕えるのにかろうじて足りるだけで、そのわずかな雄も、務めを果たすとほとんどすぐに死んでしまう。この驚くべき世界における自然の法則の意味は、努力のない生は罪であるというラスキンの教えと同じである。そして雄は働き手としても戦士としても役に立たないので、その存在はほんの一時の重要さしかない。たしかに雄は、テスカトリポカの祭りのために選ばれ、心臓をえぐり出される前に二十日間の蜜月を許されたアステカのいけにえのように、犠牲にされるわけではない。しかし、その高い運命の中で、雄はそれにほとんど劣らず不幸なのである。ただ一夜だけの王家の花婿になる運命にあると知りながら育てられる若者たちを想像してみるがよい――婚礼のあとには生きる道徳的な権利はなくなること――結婚は彼ら一人残らずにとって確実な死を意味すること――そして、何世代ものあいだ自分たちより長生きする若い未亡人たちに嘆いてもらうことさえ望めないことを知りながら……。

五

けれども、これまで述べたことはみな、本当の「昆虫世界のロマンス」への序文にすぎない。

――この驚くべき文明に関して、とびぬけて最も驚くべき発見は、性の抑制の発見である。ある種の進化した蟻では、大多数の個体において性がまったく消えている。高等な蟻の社会のほとんどすべてで、性の生活は種の存続に絶対に必要な程度にしか存在しないように見える。しかし、この生物学上の事実そのものは、それが示す倫理的な示唆ほど驚くべきものではない。というのも、性の能力のこの実際上の抑制、あるいは調節は、自発的なものらしいからである。少なくとも、種族に関する限りは自発的なのである。いまでは、この驚くべき生き物は、何か特別な養い方によって、子どもの性を発達させたり、その発達を止めたりする方法を身につけていると信じられている。蟻たちは、ふつうは最も強く、最も御しがたいと考えられている本能を、完全に制御のもとに置くことに成功したのである。そして性の生活を、絶滅を防ぐのに必要な範囲内にきびしく制限していることは、この種族がなしとげた多くの生命の倹約のうちの一つ(最も驚くべきものではあるが)にすぎない。利己的な快楽――「利己的」という言葉のふつうの意味での――を味わうあらゆる能力が、同じように生理的な変化によって抑えられている。どんな自然の欲求も、それを満たすことが直接または間接に種族の利益になる程度においてしか、満たすことはできない。欠かすことのできない食物と睡眠の必要でさえ、健康な活動を保つのに必要なちょうどその程度にしか満たされない。個体は共同体の幸福のためにしか存在し、行動し、考えることができない。そして共同体は、宇宙の法則が許す限り、愛にも飢えにも支配されることを、勝ちほこって拒むのである。

われわれの多くは、何らかの宗教的な信条――来世の報いへの希望や、来世の罰への恐れ――なしには、どんな文明も存在しえないと信じるように育てられてきた。道徳的な観念にもとづく法がなく、その法を執行する有効な警察がなければ、ほとんど誰もが、ほかの誰もの不利益をかえりみず、自分の利益だけを求めるだろうと考えるように教えられてきた。そうなれば強い者は弱い者を滅ぼし、哀れみや同情は消えうせ、社会の構造全体はばらばらにくずれてしまうだろう、と……。こうした教えは、現にある人間の本性の不完全さを告白しており、明らかな真理を含んでいる。しかし何千年、何万年も昔に、はじめてその真理を宣べ伝えた人々は、利己心が本来ありえないような社会のあり方を、想像したこともなかった。宗教を持たない自然が、確かな証拠をわれわれに示してくれたのである――積極的な善行の喜びが義務という観念を不要にするような社会――本能的な道徳があらゆる種類の倫理の掟を不要にするような社会――その構成員の一人一人がまったく無私に、力強く善良に生まれついているので、道徳の訓練などは、いちばん幼い者にとってさえ、貴重な時間のむだ以外の何ものでもないような社会が、存在しうるという証拠を。

進化論者にとって、こうした事実は必然的に、われわれの道徳的理想主義の価値は一時的なものにすぎないこと、そして徳よりも、親切よりも、自己犠牲よりも――いまの人間の意味でのそれらの言葉よりも――すぐれた何かが、ある条件のもとでは、やがてそれらに取って代わるかもしれないことを示唆する。進化論者は、道徳の観念のない世界のほうが、そうした観念によって行いが律せられている世界よりも、道徳的にすぐれているのではないかという問いに、向き合わざるをえなくなる。さらには、われわれのあいだに宗教の戒律や道徳の法や倫理の基準が存在すること自体が、われわれがまだ社会進化のたいそう原始的な段階にいることを証明しているのではないか、と自問しなければならなくなる。そしてこうした問いは、当然もう一つの問いへとつながる。人類はいつかこの地球の上で、そのすべての理想を超えた倫理的状態に到達することができるだろうか――いまわれわれが悪と呼んでいるものがすべて萎縮して消えうせ、われわれが徳と呼んでいるものがすべて本能に変わってしまった状態――倫理の概念や掟が、高等な蟻の社会でならいまでもそうであるように、無用のものとなった利他の状態に。

近代思想の巨人たちは、この問いにいくらか注意を払ってきた。そしてその中で最も偉大な人が、この問いに――部分的には肯定的に――答えている。ハーバート・スペンサーは、人類が倫理的に蟻の文明に匹敵する、ある文明の状態に到達するだろうという信念を表明している。

「もし下等な生き物の中に、その本性が体質的に変化して、利他的な活動が利己的な活動と一つになっている例があるとすれば、同じような条件のもとでは、人間のあいだにも同じような一体化が起こるだろうということは、抗しがたく示唆される。社会性の昆虫は、まさにぴったりの例を示してくれる――そして実に、個体の生命がほかの個体の生命に仕えることに、どれほど驚くべき程度まで吸収されうるかを示す例を……。蟻も蜂も、われわれがその言葉に与えている意味での義務感を持っているとは考えられないし、ふつうの意味での自己犠牲をたえず行っているとも考えられない……。〔これらの事実は〕利他的な目的の追求において、ほかの場合に利己的な目的の追求において示されるのとまったく同じくらい精力的な本性を生み出すことが、生物の組織の可能性の範囲内にあることを示している。そしてそのような場合には、これらの利他的な目的は、裏返せば利己的である目的を追求することの中で追求されることを示している。というのも、生物の組織の要求を満たすためには、他者の幸福に役立つこれらの行いが続けられなければならないからである……。

「未来永劫にわたって、自己への配慮がたえず他者への配慮に従わされる状態が続かなければならないというのが真実であるどころか、逆に、他者への配慮がやがてたいそう大きな喜びの源となり、直接の利己的な満足から得られる喜びをしのぐようになるだろう……。それならば、やがては利己と利他とが調和して、一方が他方に溶けこんでしまうような状態も訪れるだろう」

六

もちろん、この予言は、人間の本性がいつか、昆虫の社会のさまざまな階級を分けているような構造上の専門化に比べられるほどの、生理的な変化をとげることを意味しているわけではない。活動する大多数が、選ばれた母たちという活動しない少数者のために働く、半ば雌の働き手とアマゾンからなるような、人類の未来の状態を想像せよと言われているわけではない。スペンサー氏は「未来の人口」の章においてさえ、より高い道徳の型を生み出すのに避けられない肉体的な変化について、詳しく述べようとはしていない――もっとも、完成された神経系と、人間の生殖力の大きな減退についての氏の一般的な記述は、そのような道徳的進化が、かなり大きな肉体的変化を意味することを示唆しているけれども。たがいに善を施し合う喜びが生きる喜びのすべてとなるような未来の人類を信じることが正当であるなら、昆虫の生物学の事実が進化の可能性の範囲内にあると証明した、ほかの肉体的・道徳的な変化を想像することも、また正当ではないだろうか……。わたしにはわからない。わたしはハーバート・スペンサーを、これまでこの世に現れた最も偉大な哲学者として、このうえなく深く尊敬している。そして、読者が総合哲学に触発されて書かれたと思いこむようなかたちで、その教えに反することを書くとしたら、たいそう残念に思うだろう。これから述べる考察には、わたしひとりが責任を負う。もし誤っているなら、その罪はわたし自身の頭にふりかかるがよい。

スペンサー氏の予言した道徳的な変化は、生理的な変化の助けを借りてしか、それも恐ろしい代価を払ってしか、実現できないだろうと思う。昆虫の社会に現れている倫理的な状態は、何百万年ものあいだ、最も残酷な必要に対して死にものぐるいで続けられた努力によってしか、到達できなかったはずである。人類も、いずれは同じように無慈悲な必要に立ち向かい、それを克服しなければならないかもしれない。スペンサー氏は、人間の苦しみが最大になる時はまだこれからであり、それは人口の圧力が最大になる時期と重なるだろうと示している。その長い圧迫のさまざまな結果の中で、人間の知性と同情が大いに増すだろう、そしてこの知性の増大は人間の生殖力を代価としてなしとげられるだろう、とわたしは理解している。しかし、この生殖力の衰えは、最も高い社会状態を保証するには十分ではないだろうと言われている。それは人間の苦しみのおもな原因であった人口の圧力をやわらげるだけだろう。完全な社会の均衡の状態に、人類は近づきはするだろうが、決してすっかり到達することはないだろう――

社会性の昆虫が解決したように、性の生活を抑えることによって経済の問題を解決する何かの手段が発見されない限りは。

そのような発見がなされ、人類が、いま性の生活が必要としている力を、より高い活動の発達に振り向けるために、その子どもたちの大多数において性の発達を止めることに決めたとしよう――その結果、ついには蟻のような多形の状態になるのではないだろうか。そしてその場合、来たるべき種族は、その高い型において――男性的な進化ではなく女性的な進化を通じて――どちらの性でもない者たちの大多数によって、本当に代表されることになるのではないだろうか。

いまでさえ、どれほど多くの人が、ただ無私の動機から(宗教的な動機は言うまでもなく)、自らに独身を課しているかを考えれば、より高度に進化した人類が、全体の幸福のために、とくに得られるある種の利益を考えて、その性の生活の大部分を喜んで犠牲にするということも、ありそうもないことには思えないはずである。そうした利益のうちで小さからぬものは――人類が蟻の自然なやり方で性の生活を制御できると常に仮定してのことだが――寿命のとてつもない延長だろう。性を超えた人類の高い型は、千年の命という夢を実現できるかもしれない。

すでにわれわれは、しなければならない仕事に比べて命が短すぎることを知っている。そして発見のたえず加速していく進歩と、やむことのない知識の拡大とともに、時がたつにつれて、われわれは命の短さを嘆く理由をきっと、ますます多く見いだすだろう。科学がいつか錬金術師たちの望んだ霊薬を発見することは、きわめてありそうにない。宇宙の力は、われわれが自分たちをだますことを許しはしないだろう。宇宙の力がわれわれに与えてくれるどんな利益に対しても、全額の代価が払われなければならない。ただでは何も得られないというのが、永遠の法則なのである。おそらく長い命の代価は、蟻がそのために払った代価と同じであることがわかるだろう。おそらく、どこかもっと古い惑星の上では、その代価はもう払われていて、子を産む力は、種族のほかの者とは想像もつかないかたちで形態的に分化した一つの階級に限られているのかもしれない……。

七

けれども、昆虫の生物学の事実は、人類の進化の将来の道筋について、これほど多くのことを示唆する一方で、倫理と宇宙の法則との関係についても、何かきわめて重大な意味のあることを示唆してはいないだろうか。どうやら最も高い進化は、人間の道徳的経験があらゆる時代に非難してきたことをなしうる生き物には、許されないようである。どうやら、ありうる最も高い力は無私の力であり、残酷さや情欲には、決して至上の力は与えられないようである。神々はいないのかもしれない。しかし、存在のあらゆる形を形づくり、また解き放つ力は、神々よりもずっときびしい要求をするもののように思われる。星々の運行に「劇的な傾向」があることを証明することはできない。しかしそれでも宇宙の過程は、人間の利己心に根本から対立する、人間のあらゆる倫理の体系の価値を、肯定しているように見えるのである。

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