六十二代(天暦の聖主はこの方である。殿上で歌合があった。)
次の帝は村上天皇と申し上げました。お名前は成明。この方は醍醐天皇の第十四皇子です。ご母后は朱雀院と同じ母君でいらっしゃいます。この帝は延長四年丙戌六月二日にお生まれになりました。(桂芳坊でお生まれになったとのことである。)天慶三年庚子二月十五日にご元服。御年十五。同じ七年甲辰四月二十二日に東宮にお立ちになりました。御年十九。同じ九年丙午四月二十日に即位なさいました。御年二十一。世をお治めになること二十一年。(ある本に、康保四年五月二十五日に崩御なさる。御年四十二。御陵は村上、とある。)ご母后は、延喜三年癸亥に前坊(保明親王)がお生まれになりました。御年十九。同じ二十年に女御の宣旨が下りました。御年三十六。同じ二十三年癸未に朱雀院がお生まれになりました。同じ年の四月二十五日に后の宣旨をお受けになりました。御年三十九。そのまま帝をお産み申し上げなさいました。同じ四月に后にお立ちにもなったのでしょうか。
四十二で村上天皇はお生まれになったのでした。后にお立ちになる日、前坊のことを宮の内で恋しがって口に出す人もいなかったところ、前坊の乳母子(乳母とも)で大輔の君という女房が、こう詠んで差し出したのでした。
「わびぬれば今はたものを思へども心に似ぬは涙なりけり(悲しみに沈んで、今もなお物思いをしているけれど、心に似ず、めでたい日にもこぼれてしまうのは涙なのでした)」。
また、ご法事が終わって人々が退出する日にも、このように詠んだのでした。
「今はとてみ山をいづるほととぎすいづれの里に鳴かむとすらむ(今はもうこれまでと山を出てゆくほととぎすは、どこの里で鳴こうとするのだろう)」。
五月のことでございました。なるほど、どれほどの思いかと感じられるあれこれが末の世まで伝わるほどのことで、優雅なことでございますな。さて、后は前東宮に先立たれ申し上げて、限りなくお嘆きになりました。同じ年に朱雀院がお生まれになりました。ご自身が后にお立ちになったのも、さまざまなお嘆きとお喜びとが入りまじったお気持ちだったろうとお察し申し上げます。世にこの方を大后と申し上げます。