六十四代(寛和元年八月二十九日に出家。年三十七。法名は金剛法。同じ二年三月二十二日、東大寺で受戒。正暦二年二月十二日に崩御。年三十三。同じ月の十九日、円融寺の北原に葬り、御骨を村上天皇の御陵のそばに納めた。)
次の帝は円融院天皇と申し上げました。お名前は守平。この方は村上天皇の第五皇子です。ご母后は冷泉院と同じ母君でいらっしゃいます。この帝は天徳三年己未三月二日にお生まれになりました。この帝が東宮にお立ちになったころには、まことに聞き苦しい、ひどいことがいろいろあったそうです。これは皆さまご存じのことですから、話も長くなりますし、やめておきます。安和二年己巳八月十三日に即位なさいました。御年十一とのことです。そして天禄三年壬申正月三日にご元服。御年十四。世をお治めになること十五年。ご病気があってご出家なさり、法名を金剛法と申し上げました。正暦二年二月十二日に崩御なさいました。御年三十三。母后は御年二十三、四で、続けてこの帝と冷泉院とをお産みになりました。(お二人のあいだに為平親王がお生まれになっている。「続けて」とするのはこの本の誤りである。)まことに尊いご宿縁です。
母后の母方の祖父は、出雲守従五位下藤原経邦という人です。後の世には帝に奏上なさって贈三位となさいました。もうこの世にいない人の跡ですけれども、この世の光栄としてはまことに名誉なことですな。大后と申し上げるのは、この方のことです。十番目の皇女をお産みになったとき亡くなられたお嘆きは、まことに悲しいことと聞いております。村上天皇の御日記をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。ほのかに伝え聞くだけですが、身分の及ばない心にも、まことにしみじみとして、おそれ多いことでございますな。その後に残られた皇女こそ、大斎院(選子内親王)ですよ。