十二 花山院

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

六十五代(お名前は師貞。寛弘五年二月八日に崩御。四十一。)

次の帝は花山院天皇と申し上げました。お名前は師貞。冷泉院の第一皇子です。ご母后は贈皇后懐子と申し上げます。太政大臣伊尹公の長女です。この帝は安和元年戊辰十月二十六日、母方の祖父の一条の邸でお生まれになったとありますのは、世尊寺のことでしょうか。その日は冷泉院の御代の大嘗会の御禊がありました。同じ二年己巳八月十三日に東宮にお立ちになりました。御年二歳。天元五年壬午二月十九日にご元服なさいました。御年十五。永観二年甲申八月二十八日に即位なさいました。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あきれるようなことがございました。人にも知られずに、ひそかに花山寺へいらっしゃって、ご出家入道なさったのです。御年十九。世をお治めになること二年。その後二十二年ご存命でした。しみじみと哀れなのは、ご退位なさった夜、藤壺の上の御局の小戸からお出になったところ、有明の月がたいそう明るかったので、『あまりに人目につきすぎるな。

どうしたものだろう』とおっしゃったのを、『そうかといって、おやめになるわけにはまいりません。神璽と宝剣はもう東宮のほうへお移りになりましたので』と粟田殿(藤原道兼)がせき立て申し上げなさったのは、まだ帝がお出ましにならないうちに、神璽と宝剣を道兼殿が手ずから取って東宮のほうへお渡し申し上げてしまっていたので、帝がお戻りになるようなことがあってはならないとお思いになって、そう申し上げなさったのだそうです。帝が明るい月の光をまぶしくお思いになっているうちに、月の面にむら雲がかかって少し暗くなっていったので、『わたしの出家は成就するのだな』とおっしゃって歩き出されたところ、弘徽殿の女御(藤原忯子)のお手紙で、日ごろ破り捨てずに肌身離さずご覧になっていたものを思い出されて、『しばらく待て』と取りにお入りになったときですよ、粟田殿が『どうしてそのようにお思いになるのですか。今この機会を逃したら、自然と差しさわりも出てまいりましょう』と、うそ泣きをなさったのは。

さて、土御門大路から東の方へいらっしゃると、安倍晴明の家の前をお通りになったところ、晴明自身の声で、手をはげしくぱちぱちと打つのが聞こえました。『帝がご退位なさると見える天変があったが、もはや事は成ってしまったと見えるぞ。参内して奏上しよう。車の支度を急げ』と言う声をお聞きになったのは、いくら覚悟のうえとはいっても、しみじみとお感じになったことでしょう。晴明が『とりあえず式神一人、内裏へ参れ』と申しますと、目には見えないものが戸を押し開けて出て行きました。帝のお後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、『ただ今、ここをお通りになっていくようです』と答えたとかいうことです。その家は土御門町口にありましたので、ちょうどお通りになる道筋だったのでした。花山寺にお着きになって、御髪をお下ろしになったあとで、粟田殿は『退出して、父の大臣にも、出家前の変わらない姿をもう一度見せ、これこれと事情も申し上げて、必ず戻って参ります』と申し上げなさったので、帝は『わたしをだましたのだな』とお泣きになったそうです。

哀れで悲しいことですな。日ごろから、自分もお弟子としてお仕えしましょうと約束して、帝をおだまし申し上げていたとは、おそろしいことです。東三条殿(藤原兼家)は、もしや道兼殿まで出家するようなことをなさるのではないかと心配で、しかるべき思慮のある者たち、なにがし、かれがしという名高い源氏の武者たちを護衛につけておかれました。京の町中では隠れていて、鴨川の堤のあたりから姿を現してお供申し上げたのでした。寺などでは、もしや無理に道兼殿を出家させ申し上げる者でもいるかと、一尺ほどの刀を抜きかけてお守り申し上げたそうです。(ある本に、寛弘五年二月八日に崩御なさる。御年四十一、とある。)

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