十五 後一条院

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

次の帝は、今の帝で、お名前は敦成。この方は一条院の第二皇子です。ご母后は今の入道殿下の長女です。皇太后彰子と申し上げます。今はだれも、このことをはっきりご存じないと思う人はおりますまい。けれども、まず帝のことをお話しする順序にたがえないようにしているのです。寛弘五年戊申九月十一日、土御門殿でお生まれになりました。同じ八年辛亥六月十三日、東宮にお立ちになりました。御年四歳。長和五年丙辰正月二十九日に即位なさいました。御年九歳。寛仁二年戊午正月三日にご元服。御年十一。即位なさって十年におなりでしょうか。今年は万寿二年乙丑と申すようです。同じ帝と申しても、ご後見が多く、心強くいらっしゃいます。御祖父として、ただ今の入道殿下はご出家なさいましたが、世の親として、一切の衆生をわが一人子のようにお育てになっています。いちばん上の御叔父として、ただ今の関白左大臣(藤原頼通)が天下の政治をとっていらっしゃるはずです。

次の御叔父と申し上げる方は、内大臣で左大将を兼ねていらっしゃいます(藤原教通)。その次の御叔父と申し上げる方々は、大納言、あるいは東宮大夫、中宮権大夫、中納言などとさまざまでいらっしゃいます。このようにいらっしゃるので、ご後見が多くいらっしゃるのです。昔も今も、帝は賢いと申しても、臣下が大勢で傾け申し上げるときには傾いてしまわれるものです。ですから、ただ天下はご自分のご後見の方々ばかりでいらっしゃるので、まことに心強く、めでたいことです。昔、一条院がご病気のとき、おっしゃったことには、『本来ならば順序どおりに第一皇子を東宮とすべきだが、後見すべき人がいないので、思いもよらない。だからこの第二皇子をお立てするのだ』とおっしゃったのも、この今の帝のことですよ。なるほど、もっともなことです。帝のご順序はお話ししなくてもよかったのでしょうが、入道殿下のご栄華も何によって開けたのかと思いますと、まず帝や后のご様子をお話しするのです。

植木は根を生やして、手入れをして育て上げてこそ、枝も茂り、実も結ぶのでしょう。そういうわけで、まず帝のご系譜を思い出して、次に大臣のご系譜を明らかにしようというのです」と言うと、大犬丸(繁樹)は、「いやいや、なんともすばらしいことですな。これほど多くの帝のご様子でさえ鏡にかけて映すようにお話しになるのですから、まして大臣などのことは、長年闇に向かっていたのに、朝日がうららかにさし出たのに出会ったような心地がしますな。また、わたしどもの家の女たちの化粧箱の鏡は、影もよく映らず、磨く方法も知らずにしまっておいたのに慣れていて、明るく磨いた鏡に向かって自分の姿を見るような気持ちで、恥ずかしくもあり、またたいそう珍しいものに向かい合ったようでもありますよ。ああ、おもしろいことだ。わたしは寿命が、あと十年、二十年、今日のびたような心地がいたします」と、たいへん得意げにするのを、見聞きしている人々はばかばかしくおかしく思いましたが、語り続けることどもはなみなみでなくおそろしいほどなので、ものも言わずに皆聞いていました。

大犬丸が「さあ、お聞きください。歌を一つ作りました」と言うようなので、世継は「たいそう感心なことです」と言って、「うかがいましょう」と言います。繁樹は、たいそう優雅に詠み出します。

『あきらけき鏡にあへば過ぎにしも今ゆくすゑのことも見えけり(曇りのない鏡に会ったので、過ぎ去ったことも、今のことも、これから先のことも見えたことだ)』

と言うようなので、世継はたいそう感心して、何度も口ずさみうなって、返歌に、

『すべらぎの跡もつぎつぎかくれなくあらたに見ゆるふる鏡かも(帝のご事績も次々と隠れなく、あらたに映し出す古い鏡であることよ)。

今様の葵の花の形や八花形の鏡で、蒔絵や螺鈿の箱に入れたものに向かったような心地がなさいますか。いやいや、そういうものは、きらきらしていても曇りやすいところがあるものです。それに比べて、昔の古風な鏡は金属が白くて、人が手を触れなくても、このように明るいのですよ』などと、得意顔に笑う顔つきは、絵に描きたいほどに見えます。奇妙ではありながら、さすがにたいしたもので、おもしろく、本当に珍しいことでした。世継は「つまらない話よりは、まじめなことをお話ししましょう。皆さま、だれもかれも、折々お聞きください。今日の講師の説法は悟りのためとお思いになり、またわたしどもが説くことは『日本紀』の講義を聞くとお思いになればよいのです」と言うと、僧も俗人も「なるほど、説経や説法はたくさんうかがってきたが、このように珍しいことをおっしゃる方はまったくいらっしゃらない」と言って、年老いた尼や法師たちは額に手を当てて、信心を起こしながら聞いておりました。「世継はまことにおそろしい老人でございます。

まことの心をお持ちの方なら、どうして気恥ずかしくお思いにならないことがありましょう。世の中を見知り、心に浮かべて覚えております老人です。目でも見、耳でも聞き集めております。あらゆることの中で、ただ今の入道殿下のご様子は、昔のことを聞き、今を見ましても、二つとなく、また三つとなく、並ぶものなく、はかり知れないほどでいらっしゃいます。たとえば法華経の一乗の法のようなものです。ご様子はかえすがえすもすばらしいのです。世の中の太政大臣・摂政・関白と申し上げても、初めから終わりまでめでたいということは、なかなかおありにならないものです。経文や聖教の中にも説いておられるそうですが、魚の卵は多いけれども、本当の魚になるものは少ない。菴羅(あんら)という木は花はたくさん咲くけれども、実を結ぶことは少ない、とお説きになっています。天下の大臣・公卿の中で、この宝のような君だけが、世に珍しくいらっしゃるようです。これから先も、だれがこれほどでいらっしゃるでしょうか。

まことにめったにないことですよ。皆さま、心を一つにしてお聞きください。この世にあることで、何を見逃し、聞きもらしておりましょう。この世継が申し上げることどもは、ご存じない方々も多くいらっしゃるだろうと思います」と言うようなので、人々は「何もかも、言うまでもないことだ」と言って聞き合っていました。「世が始まってのち、大臣は皆いらっしゃいました。けれども、左大臣・右大臣・内大臣・太政大臣と申し上げる位に、天下でおなりになった方々は、数えて皆覚えております。世が始まってから今に至るまで、左大臣は三十人、右大臣は五十七人、内大臣は十二人です。太政大臣は、昔の帝の御代には簡単にはお置きにならなかったのです。あるいは帝の御祖父、あるいは帝の御叔父がおなりになるようです。また、そのように帝の御祖父や御叔父などとしてご後見をなさる大臣・納言も数多くいらっしゃいます。亡くなられてのちに贈太政大臣などになられた方々も、たくさんいらっしゃるようです。

そのような方々は七人(ある本には十人)ほどいらっしゃるでしょうか。正式の太政大臣にはなりがたく、少ないのです。神武天皇から三十七代に当たられる孝徳天皇と申し上げた帝の御代から、八省百官とともに、左右大臣・内大臣が置かれ始めたのでしょう。左大臣には阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我山田石川麻呂、この方は元明天皇の御祖父です。石川麻呂大臣は、孝徳天皇が即位なさって、元年乙巳に大臣になり、五年己酉の春に、東宮のために殺されなさったということです。これはあまりに古いことです。内大臣には中臣鎌子連(藤原鎌足)です。その時代には年号がなかったので、月日は申しにくいのです。また三十九代に当たられる天智天皇こそが、初めて太政大臣をお置きになりました。それはそのままご自身の第二皇子でいらっしゃった大友皇子です。正月に太政大臣になられました。

天智天皇が十年十二月三日に崩御なさってのち、大友皇子が自分が帝位に就こうとなさったところ、六月二十六日にこの皇子を殺して、大海人皇子が帝位に就かれて、天武天皇と申し上げました。世をお治めになること十五年。神武天皇から四十一代に当たられる持統天皇は、また太政大臣に高市皇子をお任じになりました。天武天皇の皇子です。この二人の太政大臣は、そのまま帝になられたことになります。ただし高市皇子は大臣のまま亡くなられました。その後、太政大臣は長いあいだ途絶えていました。ただ、職員令には、太政大臣にはなみの人を任じてはならない、もしふさわしい人がいなければ空席にしておくべきだ、とありましたので、なみの位ではないのでしょう。四十二代に当たられる文武天皇の御代に年号が定まって、大宝元年といいます。文徳天皇の御代の終わりの年、斉衡四年丁丑二月十九日に、帝の御祖父(叔父とも)である右大臣従一位藤原良房公が太政大臣になられました。

御年五十四。この大臣が初めて摂政もなさったので、そのままこの殿から今の閑院の大臣(藤原公季)まで、太政大臣は十一人続いていらっしゃいます。ただし、これより前の大友皇子と高市皇子を加えると、全部で十三人の太政大臣です。太政大臣におなりになった人は、亡くなられてのち、必ず諡(おくりな)というものがありました。しかしながら、大友皇子はそのまま帝位にお立ちになりました。(帝のまま亡くなられたので諡はない。)高市皇子の諡ははっきりしません。また太政大臣といっても、出家した人には諡はありません。ですから、この十一人続いていらっしゃる方々のうち、お二方は出家なさったので諡がおありになりません。この十一人の太政大臣たちのご順序を、初めから終わりまでお話し申し上げようと思うのです。流れを汲んで源を尋ねてこそよいのですから、大織冠(鎌足)から始めて申し上げるべきですが、それはあまりに古い世のことです。

お聞きになる方々も、軽んじるようなことではありますまいが、何ともお思いにならないでしょうし、話が多くなって講師がいらっしゃったら、興ざめして残念です。ですから、帝のことも文徳天皇の御代からお話ししましたので、冬嗣公からお話しするのです。その帝の御叔父の冬嗣公と申し上げる方は、鎌足から六代目に当たられます。世の人は「藤さし」と申すようです。その冬嗣の大臣からお話ししましょう。その中で思いますに、ただ今の入道殿がすぐれていらっしゃるのです。

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