二十 太政大臣基経

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

この大臣は長良中納言の三男でいらっしゃいます。この基経公の御娘は、醍醐天皇の御代の后で、朱雀院天皇と村上天皇の二代のご母后でいらっしゃいます。この大臣の母君は、贈太政大臣総継の娘で、贈正一位の大夫人乙春です。陽成院が即位なさって、摂政の宣旨をお受けになりました。御年四十一。寛平の帝(宇多天皇)の御代、仁和三年丁未十一月二十一日に関白におなりになりました。御年五十六で、寛平三年正月十三日に亡くなられました。諡を昭宣公と申し上げます。公卿として二十七年。大臣の位に二十年。世の政治をおとりになったことは十余年かと思われます。世の人は堀河の大臣と申し上げます。小松の帝(光孝天皇)のご母后は、この殿の母君の姉妹でいらっしゃいます。そういうわけで、幼いころから小松の帝を親しくお見申し上げなさっていて、何かにつけて立派でいらっしゃるのを、すばらしいお方だなと拝見なさっていたのですが、良房公の大饗のときだったでしょうか、昔は親王たちが必ず席にお着きになることになっていて、小松の帝もおいでになっていたところ、雉の脚は必ず大饗に盛る物でしたが、どうしたことか、それを主賓の御前で取り落としてしまいました。

給仕をする人が、困り果てて、親王の御前のものを取って主賓の御前に据えたところ、どうお思いになったのでしょうか、親王はご自分の前にともしてあった灯火を、そっとお消しになりました。この大臣はそのときはまだ下位で、末席から拝見なさっていたのですが、なんとみごとになさるものだと、ますます感心申し上げなさって、陽成院が退位なさることを定める会議に出ておられたときのことです。融の大臣(源融)が、身分が高いので自分が位に就こうというお心が深くて、「近い皇族の血筋を探すなら、融などもおりますよ」と言い出されたのを、この大臣が「皇族の血筋ではあっても、姓を賜わって臣下として仕えていて、位に就いた例がありましょうか」と申し出られたので、もっともなことでしたから、この大臣の決定によって、小松の帝は即位なさったのです。帝のご子孫もはるかに伝わり、大臣のご子孫も伝わりながらご後見を申し上げていらっしゃいます。

そうなるはずの約束を前世から結んでおかれたお二人の間柄なのだろうと思います。大臣が亡くなられて深草の山に葬り申し上げた夜、勝延僧都がお詠みになったのは、

「空蟬は殻を見つつもなぐさめつ深草の山けぶりだにたて(蟬のぬけがらのような亡骸でも、見ていれば心は慰められた。深草の山よ、せめて煙だけでも立ってくれ)」。

(あの歌は、遍昭が悲しみのあまり、帝のご葬送のときに詠んだものである。)また上野峯雄という人が詠んだのは、

「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(深草の野辺の桜よ、心があるなら、今年だけは喪の色の墨染めに咲いてくれ)」

なども、『古今集』にある歌ですよ。お住まいは堀河院と閑院とにお住みになりましたが、堀河院はしかるべき行事のときの晴れの場所にお使いになり、閑院はご物忌のときや、また疎遠な人などは参らない所として、しかるべく親しくお思いになる人だけをお供にしていらっしゃる折もありました。堀河院は土地のありさまがまことにすばらしいのです。大饗のときの、殿方のお車の立て方などですよ、主賓のお車は堀川より東に立て、牛は御階の柱に引きつないで、ほかの上達部の車は堀川より西に立ててあるのがすばらしく、主賓のお車が格別に見えることは、ほかの所ではございませんものだと拝見しておりましたが、それも今の高陽院殿(藤原頼通の邸)には圧倒されてしまったようです。四町四方で四面とも大路に面した京の中の家は、冷泉院だけだと思っておりましたのに。

世が末になるにつれて、まさることばかりが出てくるようです。この昭宣公は陽成天皇の御叔父として、宇多天皇の御代に准三宮の位となり、年官・年爵をお受けになりました。朱雀院と村上天皇の御祖父でいらっしゃり、世のご信望が尊いと申すのでは言い足りないほどです。男のお子は四人いらっしゃいました。長男は左大臣時平、次男は左大臣仲平、四男は太政大臣忠平」と言うと、繁樹の様子が変わって、まず後ろの人々の顔を見わたして、「それこそが、いわゆるこの老人の宝の君、貞信公でいらっしゃいます」と言って扇を使う顔つきが、格別におもしろいのです。「三男に当たられた方は、従三位で宮内卿兼平の君と申し上げて亡くなられました。実のところ、母君はたいそう高貴でいらっしゃいます。人康(さねやす)の式部卿の親王の御娘で、かえすがえすも尊くいらっしゃるはずでしたが。この三人の大臣たちを、世の人は三平と申しました。

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