この大臣は基経公の四男で、母君は本院の大臣・枇杷の大臣と同じです。延長八年九月二十二日に摂政、天慶四年辛丑十一月に関白の宣旨をお受けになりました。公卿として四十二年、大臣の位に三十六年、世の政治をおとりになること二十年。(天暦三年八月十四日に亡くなられる。御年七十。)のちの諡を貞信公とお名づけ申し上げます。小一条の太政大臣と申し上げます。朱雀院と村上天皇の御叔父でいらっしゃいます。この方のお子は五人。そのころはご自身が太政大臣で、ご長男は左大臣で、実頼公、この方を小野宮殿と申し上げます。次男は右大臣師輔公、この方を九条殿と申し上げました。四男は師氏大納言と申し上げました。五男にはまた左大臣師尹公、小一条殿と申し上げましたよ。この四人の君たちが、左右の大臣・大納言として続いていらっしゃったのは、すばらしいご栄華でしたよ。
女のお子のお一方は先坊(保明親王)の御息所でいらっしゃいました。いつもこの三人の大臣たちが参られるための用に、小一条の南、勘解由小路に石畳を敷かれたのが、まだございますよ。宗像の明神がいらっしゃるので、洞院大路と小代小路の辻で車をお下りになったのですが、雨などの降る日のための用だったと聞いております。だいたいその一町は、人が通り歩きませんでした。今はいやしい者も馬や車に乗って、みしみしと歩き回っておりますよ。昔の名残として、まことにおそれ多いことと拝見しております。わたしども老人は、今もいいかげんな気持ちでは通りません。今日もここに参るのに腰がひどく痛みましたので、しかたなく通りましたが、それでも石畳は避けて通りました。南側のひどい泥を踏みこんでしまいましたので、汚いものもこうなってしまいました」と言って、足を引き出して見せます。「先祖のお遺しになった物はどれも惜しいものですが、小一条だけは住むのによくありません。
人は子を産んだり死んだりするためにこそ家もほしいものですのに、そういう折に、よそへ移らなければならないような所は何の役に立ちましょう。また、だいたいいつも油断できずおそろしいと、あの入道殿(道長)はおっしゃるそうです。この貞信公には宗像の明神がうつつに物などを申されたそうで、『わたしより位が高くて住んでいらっしゃるのはつらい』と申されたので、まことに気の毒なことだとおっしゃって、神の位を上げるよう帝に申し上げなさったのです。あの殿が、どの帝の御代とは覚えておりませんが、思いますに延喜(醍醐天皇)か朱雀院の御代のころだったでしょう。宣旨を承られて、それを執り行うために陣の座の方へいらっしゃる途中、紫宸殿の御帳台の後ろのあたりを通られたとき、何かの気配がして、御太刀の石突をつかんだので、たいそう怪しく思って手で探ってごらんになると、毛がむくむくと生えた手で、爪は長く刀の刃のようなので、鬼だったのだと、たいそう恐ろしくお思いになりましたが、おびえた様子は見せまいと心を強くお持ちになって、『朝廷の勅命を承って、議定に参る人をつかまえるのは何者か。
放さなければ、ひどい目にあうぞ』と言って、御太刀を引き抜いて、その手をつかまえなさったので、鬼はうろたえて手を放し、丑寅(北東)の隅の方へ逃げて行きました。思いますに、夜のことだったのでしょう。ほかの殿方のことよりも、この殿のことを申し上げるのは、おそれ多くもあり、しみじみともいたしますな」と言って、声が変わって、何度も鼻をかむようでした。「どういうことだったのでしょうか、七か月でお生まれになったと申し伝えております。(天暦三年八月十四日に亡くなられた。正一位を贈られた。)