第19話和歌集抄訳
巻一・20(額田王)/巻一・21(大海人皇子)
【天智天皇が蒲生野で狩りをされたとき、額田王が作った歌】
茜色に照り映える、紫草の生い茂る野を行き、立ち入りを禁じられた御料地の野を行きながら、あなたはそんなに袖を振って。野の番人が見とがめるのではありませんか。
【皇太子(大海人皇子)が答えた歌】
紫草のように美しく照り映えるあなたを、もし憎いと思っているのなら、人妻だというのに、どうしてこれほど恋い慕うでしょうか。
天智天皇の七年五月五日、近江の蒲生野で薬猟が行われた。紫草は根から紫色の染料をとる貴重な植物で、その野は一般の人の立ち入りが禁じられた「標野」であった。
額田王ははじめ大海人皇子に愛されて十市皇女を生み、のちに兄の天智天皇に召されたと伝えられる。袖を振るのは、相手の魂を招き寄せる求愛のしぐさである。天皇の妃となったかつての恋人に向かって、元の夫が人目もはばからず袖を振る。額田王はそれをたしなめながらも、どこかうれしさをにじませている。これに対し大海人皇子は、「人妻」とあえて言い切って、恋心を率直に返した。
この二首は、宴の席で座を盛り上げるために詠み交わされた戯れの歌だとする見方も有力である。それでも、のちに壬申の乱で兄の子と戦うことになる大海人皇子と、兄弟の間に立った額田王の関係を思うと、華やかな歌の裏にさまざまな想像がかき立てられる。