第40話日記・紀行抄訳
二月五日(住吉の明神)
二月五日、今日、急いで和泉の灘から小津の泊を目指して行く。松原が目もはるかに続いている。
こうして進むうちに、住吉のあたりを漕いでいく。ある人が詠んだ歌。「今見てこそ分かった、住吉の岸の松よりも、長く生きてきた自分の年齢を」。ここで、亡くなった子の母が、一日片時も忘れられないので詠んだ歌。「住吉の岸に船を寄せてほしい、恋しい人を忘れるという忘れ草が本当に効くのかどうか、摘んで行って確かめたいから」。これは、すっかり忘れてしまおうというのではなく、恋しい心をしばらく休めて、またさらに恋しく思うための力にしようというのだろう。
こう言って、ぼんやりと眺めているうちに、突然風が吹いて、漕いでも漕いでも、船は後ろへ退いていき、今にも沈んでしまいそうになる。楫取が言うには、「この住吉の明神は、例によって欲深い神様だ。何か欲しい物がおありなのだろう」と。いかにも当世風の言い方である。
そこで「幣を奉りなさい」と言う。言われるままに幣を奉ったが、全く風はやまず、ますます吹き、ますます波が立って危ないので、楫取はまた「幣では神様のお気に召さないので、船も進まないのだ。もっと神様が喜びそうな物を奉りなさい」と言う。また言われるままに、「どうしたらよいか」と言って、「目も二つあるが、たった一つしかない鏡を奉ります」と言って、海に投げ入れたので、たいそう残念だ。すると、たちまち海は鏡の面のように穏やかになった。ある人が詠んだ歌。
「荒れ狂う海に鏡を投げ入れて、神の心を、同時に見たことだよ」
まったく、住吉の明神は、「松」や「忘れ草」のような風流な神ではない。鏡に映して、神の心をはっきりと見てしまった。楫取の心は、そのまま神の御心なのだろう。