第141話近世小説抄訳
巻之一「菊花の約」(前半)
播磨の国の加古の宿に、丈部左門という儒学者がいた。清貧に甘んじ、母と二人で、書物を友として暮らしていた。
ある日、左門は、友人の家を訪ねたとき、旅の途中で重い病に倒れて寝込んでいる武士に出会った。周りの人々は、疫病がうつるのを恐れて近づこうとしなかったが、左門は、「死生命あり。どうして病がうつることなどあろうか」と言って、自ら薬を煎じ、粥を作り、心を尽くして看病した。
その武士は、出雲の国の赤穴宗右衛門という者であった。出雲の富田城主、塩冶掃部介に仕えていたが、近江の佐々木氏のもとへ使いに出ている間に、主君が尼子経久に城を奪われて殺されてしまった。宗右衛門は、故郷へ帰る途中で病に倒れたのである。
左門の手厚い看病によって、宗右衛門はやがて回復した。二人は、学問や兵法について語り合ううちに、深く心を通わせ、義兄弟の契りを結んだ。宗右衛門が兄、左門が弟となった。
初夏になって、宗右衛門は、故郷の様子を見てくると言って、出雲へ旅立つことになった。左門が「いつお帰りになりますか」と尋ねると、宗右衛門は、「重陽の節句、九月九日には必ず帰ってこよう」と約束した。
九月九日、左門は、朝早くから家を掃き清め、菊の花を瓶に挿し、酒と肴を用意して、宗右衛門の帰りを待った。老母は、「出雲は遠い国だから、今日帰ってこなくても、恨んではいけない」と言ったが、左門は、「兄は信義の人です。必ず帰ってきます」と言って、門口に立ち続けた。
日が暮れ、夜が更けて、月も山の端に隠れようとするころ、ふと見ると、朧げな影の中に、人が立っている。宗右衛門であった。