末社らく遊び

巻七「末社らく遊び」ほか(江戸・吉原)

江戸の吉原は、元和三年(一六一七年)、幕府の許可を得て、日本橋葺屋町に開かれた遊里である。明暦三年(一六五七年)の大火の後、浅草の日本堤に移され、以後、「新吉原」と呼ばれた。周囲を「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀で囲まれ、出入り口は大門ただ一つであった。

京の島原が格式と教養を重んじたのに対して、江戸の吉原は、気風のよさと「張り」(意地)を重んじた。吉原の遊女たちは、気に入らない客には、たとえ大名であっても、決して心を許さなかったという。

遺産を受け継いだ世之介は、三都の遊里を渡り歩き、江戸の吉原にもやって来た。吉原の太夫は、客に対してなかなか打ち解けず、初めての客には、盃を交わすだけで、ろくに口もきかない。二度目に来ても、まだ打ち解けない。三度目に来て、ようやく「馴染み」となり、自分専用の箸が用意される。この「初会」「裏」「馴染み」というしきたりは、吉原の遊びの作法であった。

西鶴は、京・大坂・江戸の三都の遊女を比べて、「京の女郎に江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋で遊びたい」という、当時のことわざを紹介している。京の遊女の美しさと優雅さ、江戸の遊女の意地の張り、そして大坂の揚屋(遊女を呼んで遊ぶ店)の豪華さ。それぞれの都の個性を、遊里の風俗を通して描き分けているのである。

世之介は、それぞれの遊里で、さまざまな遊女と恋の駆け引きを繰り広げ、湯水のように金を使った。その遊びぶりは、町人たちの夢と憧れを映したものでもあった。

江戸・吉原 東の色里をめぐる。
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