長崎の丸山は、寛永十九年(一六四二年)ごろ、市中に散在していた遊女屋を集めて作られた遊里である。江戸時代、長崎は、幕府が鎖国政策をとる中で、唯一、オランダと中国に開かれた貿易港であった。そのため、丸山の遊女は、日本人の客だけでなく、出島のオランダ商館の人々や、唐人屋敷の中国人の商人たちのもとにも出入りすることを許されていた。
丸山は、京の島原、江戸の吉原と並んで、日本の三大遊里の一つに数えられ、「長崎の丸山に出かけて遊ばないなら、この世に生まれた甲斐がない」とまで言われた。井原西鶴は、『日本永代蔵』の中で、「長崎に丸山という所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし」と書いている。丸山がなかったら、商売で長崎に来た上方の商人たちの金銀は、無事に上方へ持ち帰られるだろうに、というのである。
世之介もまた、諸国を放浪する中で、はるばる長崎の丸山まで足を延ばした。異国の文物があふれる長崎の町で、丸山の遊女たちは、唐織の衣装や、珍しい舶来の品々で身を飾っていた。世之介は、その異国情緒あふれる遊里で、また新しい恋に身を焦がした。
長崎の丸山町には、今も料亭「花月」(もと遊女屋の引田屋)が残っていて、坂本龍馬がつけたという刀傷の柱などとともに、往時のにぎわいを今に伝えている。