稲村崎干潟となる事

巻十「稲村崎干潟となる事」

元弘三年(一三三三年)五月、上野の国で挙兵した新田義貞は、大軍を率いて鎌倉に迫った。

鎌倉は、三方を山に囲まれ、一方は海に面した天然の要害である。山には切通しが開かれていたが、どこも北条方の兵が固く守っていて、容易に破ることはできない。極楽寺坂の切通しを攻めた新田軍は、何度攻めても押し返され、多くの兵を失った。海岸沿いの道も、稲村ヶ崎の崖が海に突き出して、波が打ち寄せ、通ることができない。沖には北条方の兵船が並んで、矢を射かけてくる。

五月二十一日の夜、義貞は、稲村ヶ崎に立って、海を見渡した。そして、兜を脱ぎ、腰に差した黄金造りの太刀を抜いて、海に投げ入れて祈った。

「聞くところによれば、日本の国の開祖である伊勢の天照大神は、本地は大日如来で、竜神の姿となって海の上に現れなさるという。わが君(後醍醐天皇)は、その子孫として、逆臣のために西の海に漂っていらっしゃる。義貞は今、臣下の道を尽くすために、斧鉞を取って敵陣に臨もうとしている。その志は、ひとえに国家を助け、民を救うためである。どうか内海外海の竜神八部よ、臣の忠義をご覧になって、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かせたまえ」

すると、その夜の明け方、稲村ヶ崎の潮が、にわかに二十余町も引いて、広い干潟ができた。沖に並んでいた兵船も、引き潮に流されて遠くへ去ってしまった。

義貞の軍勢は、干潟を一気に駆け抜けて、鎌倉の町へなだれ込んだ。町は火に包まれ、北条高時は一族とともに東勝寺で自害した。こうして、百五十年近く続いた鎌倉幕府は滅び去った。

稲村ヶ崎 新田義貞が太刀を海に投じると潮が引き、鎌倉へ攻め入る。
← 前備後三郎高徳の事