備後三郎高徳の事

巻四「備後三郎高徳の事」・巻七「先帝船上臨幸の事」
原文
天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしも非ず。

元弘二年(一三三二年)、笠置山で捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐へ流されることになった。

備前の国の武士、児島備後三郎高徳は、帝を奪い返そうと、一族を率いて、護送の一行を待ち伏せたが、道が違って果たせなかった。高徳は、せめて自分の志を帝にお伝えしようと、ひそかに美作の国の院庄の宿所に忍び込み、庭の桜の木を削って、そこに十字の漢詩を書きつけた。

「天は勾践を見捨てることはない。時が来れば、范蠡のような忠臣が現れないとも限らない」

勾践は、中国の春秋時代、呉王夫差に敗れて辱めを受けながら、忠臣范蠡の助けによって、ついに呉を滅ぼした越の王である。翌朝、警護の武士たちはその文字を見ても意味が分からなかったが、帝はそれをご覧になって意味をお悟りになり、ほほえまれたという。

帝は、隠岐の島の島後にある国分寺の行在所に住まわれた。島の暮らしは寂しく、「都を思うにつけ、身の置きどころもない」とお嘆きになった。

元弘三年(一三三三年)閏二月、各地で倒幕の兵が挙がったとの知らせが届くと、帝は、隠岐の島をひそかに脱出された。漁船の底に身を隠し、魚を積んで覆いにして、追っ手の船をかわした。伯耆の国に上陸すると、その地の豪族である名和長年が帝を迎え、船上山に城を構えて、全国に倒幕の綸旨を発せられた。

こうして帝は都に還り、建武の新政が始まることになる。

隠岐 後醍醐天皇が流され、のちに脱出して船上山で挙兵する。
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