静かな明け方、この道理を考えつづけて、自分の心に問いかけてみた。
「世を逃れて山林に入ったのは、心をととのえて仏道を修めるためである。それなのに、おまえの姿は聖人に似ているが、心は濁りに染まっている。住まいは維摩居士の方丈の庵をまねているけれども、守っている修行は、釈迦の弟子の中でもいちばん愚かだった周利槃特の行いにさえ及ばない。これは前世の報いの貧しさが自分を悩ませているのか、それとも迷いの心が極まって狂わせているのか。」
そのとき、心はまったく何も答えなかった。ただ舌の力を借りて、求められもしない念仏を、二、三回唱えて終わった。
時は建暦二年(一二一二年)三月の末ごろ、僧蓮胤(鴨長明)が、外山の庵でこれを記す。
(歌)月の光が沈んでいく山の端もつらく思われた。絶えることのない光を見るすべがあればよいのに。