山から雪が崩れ落ちることを、土地の言葉で「なだれ」といい、また「なで」ともいう。思うに、なだれは「なで下る」ことで、「る」を「れ」というのは活用の言葉である。山についてもいう。ここでは「雪頽」の字を借りて使う。字書に「頽」は暴風の意味ともあるので、よく合っているだろう。
さて雪崩は、吹雪と並んで雪国の難儀である。高い山の雪は里よりも深く、凍り方も里よりはなはだしい。わが国の東南の山々では、里に近い山でも雪が一丈四、五尺なら浅いほうである。この雪が凍って岩のようになったものが、二月ごろになると、陽気が地中から蒸して解けようとするとき、地の気と天の気のために割れて音を立てる。一か所が割れると次々に割れる。その響きは大木を折るようだ。これが雪崩の起ころうとするきざしである。山の地勢と日の当たり方によって、なだれるところとなだれないところがある。なだれるのは必ず二月である。里の人はその時を知り、場所を知り、きざしを知っているので、雪崩に打たれて死ぬ者はまれである。けれども天の気候は思いがけず一定しないので、雪崩の下で身を粉々に砕かれる者もいる。
雪崩のありさまはどうかというと、なだれようとする雪の凍った塊は、大きいものは十間以上、小さいものでも九尺、五尺を超える。大小数百、数千の塊がみな四角く、削り立てたようで(必ず四角くなることは後に説明する)、それが何千丈もの山の上から一度に崩れ落ちる。その響きは百千の雷のようで、大木を折り、大石を倒す。このときは必ず暴風が力を添えて、粉々に砕けた砂礫のような雪を飛ばし、白昼も闇夜のようになる。その恐ろしさは筆にも紙にも尽くしがたい。この雪崩で命を落とした人、命拾いをした人のことを、私が見聞きしたままに次の巻に記して、暖かい国の人の話の種にしよう。
ある人が問うた。「雪の形が六つに枝分かれすることは、前に説明があって詳しい。雪崩は雪の塊だろうが、砕けた形が雪の六つの枝という本来の形を失って四角になるのはなぜか」。答えて言った。「地の気が天で姿を変えて雪となるので、天の丸と地の四角を合わせて六つの枝をなす。六つの枝は丸い形の裏返しである。雪が天の陽を離れて降り、地に帰れば、天の陽の丸い形が失われて、地の陰の四角という本来の形にかたどる。だから雪崩は千も万もすべて角ばっているのだ。この雪崩が解けはじめると角々が丸くなる。これは陽の火である日に照らされるので、天の丸さによるのである。陰の中に陽を包み、陽の中に陰を抱くのは、天地の定まった理の中の決まりである。『老子』第四十二章に『万物は陰を負い陽を抱き、沖気(ちゅうき)をもって和をなす』とある。この理からすれば、おかみさんがいつもおかみさんらしくおとなしいだけでは、陰の中に陽を抱かず天の理にかなわない。時には夫に代わって理屈を言わなければ家の中は治まらない。そうかといって理屈が過ぎて、雌鶏が朝の時を告げるようになれば、これもまた家の中の陰陽が入れ替わって天の理にそむくので、家の滅びるもとである。万物の天理がごまかせないことは、このとおりだ」。そう言うと、問うた客は「はい、はい」と言って去っていった。雪崩はすべてが四角というわけではないが、十のうち七、八は四角い形を失わないので、この説を立てた。雪崩の図の多くが四角いのは、その七、八を取って描いたのである。