六十九 雪に坐頭を降す

北越雪譜 現代語訳
原文現代語訳

前にも言ったように、雪の中で春を迎えるので、大晦日などはどの家でもことさら雪を掘って窓の明かりを取り、掘った雪も年越しの忙しさにまぎれて片づけきらず、掘りあげた雪が屋根と同じ高さになって、雪道を歩くのに不便なところもある。

ある年の大晦日の夜、私が点をつけた俳諧の巻を懐にして、俳友の兎角子を連れ、その巻の催主のところへ行って巻を主人に渡すと、喜んで「今夜はめでたい夜だ、ゆっくり話していきなされ」と、主人の妻、嫁、娘もまじってもてなしてくれた。さていろいろな雑談のなかで、主人の妻が私に、「大晦日の夜は鬼が来るといって、江戸には厄払いというものがあって、鬼を追うことをおもしろく言い立てて物乞いをすると聞きましたが、昔もそういうことがあったのですか。鬼が来るという作り話も古い言い伝えなのですか」と尋ねた。私は答えて、「それはご主人がお持ちの『年浪草』に吾山があらましを書いています。あの本をご覧なさい」と言ったが、兎角子は酒にも酔っていたので、冗談を言った。「鬼が来るということがどうして作り話なものか。女などの集まっているところは鬼の好むところだ。鬼が来るからこそ年越しの豆まきを鬼やらいというのだ。俳諧の季寄せにも見えている」。母のそばにいた十三になる娘が言う。「おじさんはその鬼を見たことがあるの」。「見たとも見たとも。鬼にもいろいろあって、青鬼赤鬼はふつうのことだ。顔が白くてやさしいのを白鬼といい、黒くて肥え太ったのを黒鬼という。わしが江戸にいたとき、厄払いが鬼をひっつかんで西の海へさらりと投げたのを見たことがある。その鬼は黒かった。江戸の年越しでさえ夜は鬼が歩くのだから、このあたりの年越しには鬼はいくらでも歩いているだろう。明かり窓からのぞいているかもしれんぞ」とふざけておどすと、嫁も娘も「うそをおっしゃいますな」と口では言うものの、母の左右に寄りそって怖がる様子である。

ちょうどそのとき、人々の座っている後ろのほうに高い明かり窓があったが、はげしい音がして窓を破り、掘りあげた雪ががらがらと崩れ落ちる中に人が降ってきたので、女たちはみなあっと言ってうつぶして気も動転し、男たちはみな立ちあがって驚いた。下男たちもこの音にみな駆けよって、崩れ落ちた雪にまみれた人を見ると、この家にもいつも来る福一という按摩取りの若い座頭だった。幸いに怪我もなく、頭をなでまわし腰をさすっている。何だ福一かとみな笑うと、本人も笑う。下男たちは落ちた雪を取りのけ、窓も仮につくろったりする。

主人の妻は腹を立てて、「何です福一、兎角どのが鬼の話をしておられたところに、鬼かと思ってみな肝を冷やしましたよ。めでたい年越しの夜に目の見えない者が窓から降りこんでくるとは縁起でもない。さっさと出ていきなさい」とひどく叱ったので、主人が「そう叱りなさるな。福一、どうして窓から落ちこんだのだ。痛めたところはないか」と言う。福一はほほえみながら、「痛めたところはございません。今夜のお祝いを申しあげようと宿を出てまいりましたが、どこのどいつのしわざか、掘りあげの道が昨日とは違って足もとが悪くしてあったので、うっかり転んで窓を押し破って落ちこんだのです。悪気でしたのではございません、お許しください」と言う。嫁も娘も口をそろえて、「鬼かと思ってひどくおびえたのよ。憎らしい座頭め」と腹を立てて言う。主人の妻は怒りがおさまらず、「しかも今年の恵方にあたる窓を破って目のない者が入ってきたのは、かえすがえすも縁起が悪い。さっさと帰りなさい」とののしるので、兎角がそばから「福一、いったん帰ってまた来い。そのあいだにわびておいてやる」と言ったが、福一は頭を垂れて何か考えている様子だったが、やがて兎角に向かって「歌を一首詠みます。書いてくださいませ」と言う。この福一は年は若いが、俳諧も狂歌も詠む者なので、主人は「これはおもしろい」と、兎角の書いたものを読ませて聞くと、その歌は、

吉方から福一といふこめくらが入りてしりもちつくはめでたし
(恵方から福一という米蔵――小盲――が入ってきて、尻餅をつく――福が入り、餅をつく――とはめでたい)

この歌で人々は「めでたい、めでたい」と興じ、手をたたいて勇み喜び、ふたたび杯をめぐらした。主人は紋付きの羽織を嫁に出させて、歌の褒美として福一に与えたので、福一は膝にのせてなでさぐり、「しくじりで手柄を立てた」とにこにこして喜び、「めでたく年越しに着初めをしよう」と羽織を着てなでさぐり、身なりを整えてなお喜んだ。これがよい兆しとなったのか、この年この家の嫁は初産に男の子をもうけ、病気もなく育ち、三つの年に疱瘡も軽くすんで、今年七つになった。福一はこのように利口な者だったので、今は江戸にいて官位も進んだと聞いた。めでたいことであった。

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