蒲原郡の弥彦山(「弥」は「夜」とも書く)と伊夜比古神社を、この国第一の古跡とする。祭る神は饒速日命の御子、天香語山命である。元明天皇の和銅二年にこの地に現れられたとする(社領五百石)。この山はそれほど高い山ではないが、越後の海辺八十里の中ほどに一つだけ立っていて、山並みはどの山へも続かない。右に国上山、左に角田山を従え、一国の山々がこれに向かって拝礼しているようで、どの山からも見えて、まことに越後の鎮めとなる山はこれをおいてほかにないと思われる。だからこそ神もここに現れられたのである。この神の由来や霊験、神宝の類など記すべきことはたくさんあるが、しばらくここでは省く。
○さてこの山を詠んだ古歌に(『万葉集』)「いや彦のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼ降る(詠み人知らず)」(弥彦の山はおのずから神々しく、青雲のたなびく晴れた日でさえ小雨がそぼ降る)。また家持に「いや彦の神のふもとに今日しもか鹿のこやすらん皮の衣着て角つきながら」(弥彦の神のふもとに今日も鹿が伏しているのだろうか、皮の衣を着て角をつけたまま)。▲長浜 頸城郡にある(三島郡とする説もある)。家持の歌に「行きかへる雁のつばさを休むてふこれや名に負ふ浦の長浜」(行き帰りする雁が翼を休めるという、これがその名高い浦の長浜か)。▲名立 同じ郡の西浜にあり、今は宿場の名で呼ぶ。順徳院の御製に(承久の乱で佐渡へ流されたときである)「都をばさすらへ出でし今宵しもうき身名立の月を見るかな」(都をさすらい出た今宵、つらい身の上で、名立の月を見ることだ)。▲直江津 今の高田の海辺をいう。同じく御製に「鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」(鳴けば聞き、聞けば都が恋しくなるから、この里は通り過ぎてくれ、山ほととぎすよ)。▲越の湖 蒲原郡には潟と呼ぶところが多い。方言で湖を潟という。その大きなものを福島潟といい、四方三里ほどである。この潟から遠くないところに五月雨山がある。貫之の歌に「潮のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり」(潮がさかのぼる越の湖が近いので、蛤もまた揺られてきたことだ)。また俊成卿に「恨みてもなににかはせん逢はでのみ越の湖みるめなければ」(恨んでも何になろう、逢えないまま越の湖には海松布――見る目、逢う機会――もないのだから)。また為兼卿「年をへて積もりし越の湖は五月雨山の森の雫か」(年を経て積もった越の湖は、五月雨山の森の雫がたまったものか)。▲柿崎(頸城郡にある宿場である) 親鸞聖人が詠まれたと言い伝えにある歌に「柿崎にしぶしぶ宿を求めしに主の心じゅくしなりけり」(柿崎でしぶしぶ宿を求めたが、主人の心は熟柿のように熟していた――親切だった)。思うに、聖人は御名を善信と申し、三十五歳のとき讒言にあって越後に流された。時に承元元年二月である。五年後に赦免があったが、法を広めるためにと越後におられたことが五年である。それで聖人の旧跡が越後の地に残っている。布教すること二十五年、御歳六十のとき都に帰られた(越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年である)。弘長二年十一月二十八日に亡くなられた。寿命九十歳。例の柿崎の歌も布教行脚のときの作だろう。
このほか▲有明の浦▲岩手の浦▲勢波の渡▲井栗の森▲越の松原、いずれも古歌があるが、よその国にも同じ名所があるので、確かに越後とも決めがたい。さて今から(天保十一年子の年である)五百四十一年前、永仁六年戌の年、藤原為兼卿が佐渡へ左遷されたとき、三島郡寺泊の宿場で順風を待っておられるあいだに、初君という遊女を召されたが、初君の歌に「もの思ひ越路の浦の白波も立ちかへるならひありとこそ聞け」(もの思いをしつつ越える越路の浦の白波も、立ち返るならいがあると聞きます――あなたもきっと都へお帰りになれます)。この歌がよい兆しとなったのか、五年たった後、嘉元元年に為兼卿は都に帰られ、九年後の正和元年に『玉葉集』を撰ばれたとき、初君のこの歌を入れられた。これを越後第一の逸話とする。初君の旧跡が今寺泊にあり、土地では初君屋敷という。貞享元年に僧の万元が記した初君の歌の碑があったが、折れて壊れていたのを享和年間に土地の人が建て直して今も残っている。