百七 逃入村の不思議

北越雪譜 現代語訳
原文現代語訳

小千谷から一里あまりの山手に逃入村という村がある(「にげいり」を土地の人は「ごろ」と呼ぶ)。この村に大塚・小塚と呼んで大小二つの古墳が並んでいる。土地の言い伝えでは、大きいのを時平の塚とし、小さいのを時平の夫人の塚という。時平大臣夫婦の塚がこの地にあるべきいわれがないことは論じるまでもない俗説である。けれどもここに一つの不思議があり、その不思議を思うと、昔、時平にゆかりの人が越後に流されるなどしてこの地で亡くなったのではないか。その不思議というのは、昔からこの逃入村の人は手習いをすると天満宮の祟りがあるといって、村の人がみな読み書きができない。よその土地に身を寄せて手習いをすれば祟りはない。けれども村に帰れば日を追って字を忘れ、ついには読み書きができなくなる。このため文字の用があるときは、ほかの村の者に頼んで書きものの用を済ませる。またこの村の子どもなどが江戸みやげとして錦絵をもらった中に天満宮の絵があると、必ず神の祟りの兆しがあったことがたびたびあったという。だからあの大塚・小塚を時平大臣夫婦の古墳だと古くから言い伝えるのも、何かいわれのあることなのだろう。菅公が筑紫で亡くなられたのは延喜三年二月二十五日で、今から(百樹が言う、ここに今というのは牧之老人がこの下書きをした文政三年をいう)九百十五年前である。今に至っても神霊のあらたかなことは、恐るべく尊ぶべきである。

さてまたこれに類することがある。南谿の『東遊記』を見ると、南谿が東国を旅して津軽にいたとき、六、七日も風雨が続いたあいだ、土地の役人が「丹後の人はいないか」と宿ごとに厳しく尋ねたので、南谿が宿の主人にそのわけを問うと、主人はこう言った。「この国の岩木は人の知る安寿姫・厨子王丸の生まれた国です。それで昔の人がこのお二人を岩木山の神に祭って、社が今もあります。この兄弟は丹後にさまよって山椒大夫のために苦しめられたので、丹後の人を忌み嫌い、丹後の人がこの国に入ると必ず大風雨があって日を重ねるのが昔からのことです。丹後の人がこの国の境を出ると風雨はたちまちやむので、丹後の人はいないかと捜すのです」。南谿はこのことに出あったとして記している。右に言う兄弟の父、岩城判官正氏が在京中に讒言にあって家が滅んだのは永保年中のことで、今からおよそ七百五十年あまり前である。兄弟の恨みの魂が今も消えないことは、人の知恵で論じられるものではない(百樹が言う、安寿は厨子王の妻であると『塩尻』巻二十二に言う。なお考えるべし)。『西遊記』(前編)に、「景清の塚は日向にあり、世の知るところである。その母の塚は肥後国球磨の人吉の城下から五、六里ほど東の切幡村に祭る。ここに景清の娘の墓もあり、一村の氏神として祭っている。この村は必ず盲人を忌む。盲人がよそから入ると必ず祟りがある。景清は後に盲人になったので、母の霊が盲人を嫌うのだと土地の人が言った」と記している。これらのことは逃入村の不思議に似ている。けれどもこの二つは、社があって丹後の人を忌み、墓があって盲人を嫌うのであり、逃入村は墓があるために天満宮の神霊がこの地を忌まれるのだろう。このことから考えると、あの古墳はいよいよ時平の血筋の人のものだろう。

百樹が言う。私が越後に遊んで小千谷にいたとき、土地の人が逃入村のことを語って、あの古墳を見てください、案内しますと言ったが、菅公の神が忌まれる所へ文筆の者が無理に行くべきでもないので、話を聞いただけで行かなかった。さて天神様といえば三歳の子どもも尊び、時平と聞けばこの御神を讒言した悪人だとして、その悪名は千年にわたって伝わり、歌舞伎や狂言にもなって女子どもまで広く知っているが、子どもや女性はその実際の事跡を知る者はまれである。だからこのようなとりとめのない本にこの御神のことを記すのはたいへん畏れ多いが、逃入村の縁によってここに書き載せる。

○謹んで考えるに、菅原の本姓は土師で、土師古人という人が、光仁帝の御代に大和国菅原という所に住んだので、土師の姓を菅原に改められた。菅公の御名は道真、字は三、幼名を阿呼と申しあげる(阿呼の御名について私に考えがあるが、文が長くなるのでここでは省く)。仁明帝に仕えられた文章博士・参議の是善卿の三男として、承和十二年にお生まれになった。七歳のとき紅梅を御覧になって、

 梅の花紅脂のいろにぞ似たる哉阿古が顔にもぬるべかりけり
 (梅の花は紅の色に似ていることよ。阿古の顔にも塗りたいものだ)

十一歳の春(斉衡二年)、父君から「月下の梅」という詩の題をいただいたとき、即座に、

 月の輝くは晴れたる雪のごとし、梅花は照れる星に似たり。憐れむべし金鏡転じて、庭上に玉房かおる
 (月の輝きは晴れた日の雪のよう、梅の花は輝く星に似ている。いとおしいことに、金の鏡のような月がめぐって、庭に玉のような花房がかおる)

御祖父(清公)・御父(是善卿)の学業を受け継がれて、文芸はもちろん、武事にも疎くはおられなかった。

○清和天皇の貞観元年、御年十五で元服され、同四年に文章生に挙げられ、下野の権掾になられた。同十四年、御年二十八で御母の伴氏が亡くなられ、陽成天皇の元慶四年八月晦日に御父是善卿も亡くなられた(御年六十九)。このとき菅公は御年四十一である。

○寛平四年、御年四十八で『類聚国史』二百巻を撰ばれた。和歌は『菅家御集』一巻、詩文は『菅家文草』十二巻、同『後草』一巻(『後草』は筑紫での御作である)が今も世に伝わる。大納言公任卿が『和漢朗詠集』に入れられた菅公の詩に、

 春を送るには舟車を動かすことを用いず、ただ残鶯と落花とに別る。もし韶光をして我が意を知らしめば、今宵の旅宿は詩家にあらん
 (春を送るのに舟や車を出す必要はない。ただ残る鶯と散る花に別れを告げるだけだ。もし春の光に私の思いを知らせることができるなら、今夜の春の宿りは詩人の家にあるだろう)

この御作は、延喜帝がまだ東宮であったとき仰せがあって、わずかな時間に十首の詩を作られたその一つである。

○さて若いころからいくつもの位を経られて後、寛平九年、御年五十三で権大納言となり右大将を兼ねられた。このとき時平は大納言に任ぜられて左大将を兼ね、菅公と並び立って政務をとった。このとき大臣の官がなかったので、大納言で政務をとったのである。この年の七月三日、宇多帝は御位を皇太子敦仁親王に譲られて朱雀院にお入りになり、亭子院と申しあげ、出家されてからは寛平法皇と申しあげる。敦仁親王を醍醐天皇とも、後には延喜帝とも申しあげる(御年十三)。年号を昌泰と改めた。同二年、時平公が左大臣、菅公が右大臣となり、ともに帝を補佐申しあげた。このとき時平公は二十七、菅公は五十四。両公は左右の大臣であったが、才徳も年齢も釣り合わず、それで心が食い違って和合しなかった。これが菅公が讒言の毒を受けられた根本である。

○そもそも時平公は大織冠(鎌足)九代の子孫、照宣公(基経)の嫡男で、代々大臣の家柄である。そればかりか延喜帝の皇后の兄である。このため若くして大臣の重職についたのである。この人の乱行の一つを言えば、叔父の大納言国経卿は年老いていて、その北の方は年若く、業平の孫娘で絶世の美人であった。時平はこれに恋い焦がれ、夫人もまた夫の老いたのを嫌う心があった。時平はある日国経のもとで宴をし、酔った勢いにまぎらせて夫人をもらいたいと言ったのを、国経も酔っていたので冗談と思って許した。さて国経が酔って寝たのを見て、叔母を車に抱き入れて帰り、その腹に生まれたのが中納言敦忠である。時平の不道はこの一事でその他を知るべきである。このような不道の人なので、寛平法皇(帝の御父)のお心では時平の職を除いて菅公お一人に国政をまかせようとのお考えがあり、延喜元年正月三日、帝が亭子院へ朝覲されたおりにそのお心をお示しになると、帝もこれに従われ、その日菅公を亭子院に召して内々にそのことを仰せになったが、菅公は固く辞退されたのにお許しにならなかった(同月七日、従二位に進まれた)。この密事がどうしてか時平公の耳に入ったので、先手を打って帝に讒言した。「君の御弟の斉世親王は道真の娘を妻にして寵愛が厚い。それで君を廃して親王を立て、国の権力を一人の手に握ろうとの密謀がある。法皇もこれに応じておられるとのうわさだ」と、言葉たくみに讒言した。このとき延喜帝は御年十七である。皇后は時平公の妹なので、内からも外からも讒言の毒を流して若い帝のお心を動かし申しあげたのである。

○さて時平の毒のある奏上はたちまち効いて、同月二十五日に降格の宣旨がくだって右大臣の職を削り、従二位はもとのままで大宰権帥(文官)として筑紫へ左遷と決められた。寛平法皇はこのことをお聞きになってたいそう驚かれ、お車にも召されず、にわかにお靴を急がせて清涼殿にお立ちになり、このように申せと仰せられたが、左右の諸陣が警固して取り次がなかった。これも時平の讒言に味方した菅根朝臣のはからいだという。法皇は地面にお座りになって一日中庭にあられたが、夕方になってむなしく本院へお帰りになった。

○菅公には御子が二十三人おられた。男子四人は四方へ流された。これも時平の毒舌による。姫たちは都にとどまり、幼い二人を筑紫へお連れになった。長年愛された梅にさえ別れを惜しまれて、

 東風吹ば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘ぞ
 (東風が吹いたら香りを送ってよこせ、梅の花よ。主人がいないからといって春を忘れるな)

この梅が筑紫へ飛んだことは世の中のみなが知るところである。また桜を、

 桜花主を忘れぬものならば吹こん風にことつてはせよ
 (桜の花よ、主人を忘れないのなら、吹いてくる風に言づてしておくれ)

○こうして延喜元年辛酉二月一日、京の高辻のお屋敷を出られて、摂津国須磨の浦に日を過ごし、筑紫へ着かれた(お屋敷を出られてから筑紫へ着かれるまでのことを菅公が書きつけられたものを『須磨の日記』といって今も世に残る。一説に偽書という)。

○筑紫の大宰府で、

 家を離れて三四月、落つる涙百千行。万事はみな夢のごとし、時々かの蒼を仰ぐ
 (家を離れて三、四か月、流れる涙は百筋千筋。何もかもが夢のようで、ときおりあの青い空を仰ぐ)

御歌に、

 夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ
 (夕方になると野にも山にも立つ煙、それは私の嘆きから燃えまさるのだ)

また雨の日に、

 雨の朝かくるゝ人もなければやきてしぬれ衣ひるよしもなき
 (雨の朝、隠れる人もいないからか、着た濡れ衣は乾くすべもない)

(濡れ衣とは無実の罪をこうむることをいう)

○筑紫に着かれてからは「不出門行」という詩を作られて、一歩も門の外へ出られなかった。これは朝廷を尊び恐れ、御身が流罪の官であることを慎まれたからである。御句に、

 都府楼はわずかに瓦の色を看る、観音寺はただ鐘の声を聴く
 (都府楼はわずかに瓦の色を見るだけ、観音寺はただ鐘の音を聞くだけだ)

○菅公が延喜元年二月一日に都を出られて筑紫へ着かれたのは八月である。これより前の御詩文を『菅家文草』(十二巻)といい、左遷より後のものを『菅家後草』(一巻)として今も世に伝わる。『後草』に「九月十三夜」の題で、

 去年の今夜清涼に侍す、秋思の詩篇ひとり腸を断つ。恩賜の御衣今ここにあり、捧持して毎日余香を拝す
 (去年の今夜は清涼殿にお仕えしていた。秋思の詩を作って、ひとり断腸の思いであった。そのとき賜った御衣が今ここにある。捧げ持って毎日その残り香を拝している)

この御作に注があり、その趣旨は、○去年とは昌泰三年である(延喜元年の一年前)。その年の九月十三夜、清涼殿に伺候しておられたとき、「秋思」という題を賜ったので、詩の意にことよせてお諫め申しあげると、その諫めをお聞き入れになって喜ばれ、御衣を賜ったのを、この配所にも持ってきて、毎日御衣に残った香を拝しているというのである。帝を慕い、御恩を忘れられないお心の真実を作られたのである。この一詩によっても、無実の流罪にあっても少しも帝を恨まれなかったことを知るべきである。朝廷を恨まれて魔道に入り、雷神になられたという妄説は次に論じる。

○高辻のお庭の桜が枯れたとお聞きになって、

 梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ
 (梅は飛び、桜は枯れる世の中に、松だけが薄情なことよ)

○さて大宰府に流されておられること三年で、延喜三年正月ごろからお体の具合が悪くなり、二月二十五日に大宰府で亡くなられた。御年五十九。お墓は府に近い四つ辻という所に定め、御棺を出したところ途中で止まって動かなくなったので、その場所に葬り申しあげた。今の御廟がこれである。

○延喜五年八月十九日、同じ所の安楽寺にはじめて菅公の神殿が建てられた。味酒安行という人がこれを承った。同九年に神殿ができた。これより先に四人の御子は配流を許され、それぞれもとの位に戻された。

○神となって去られた後、水害・日照り・風・雷の天変がたびたびあって人の心が安らかでなかった。これこそ菅公の祟りだろうなどとうわさしたという。

○菅公の薨去から七年目にあたる延喜九年四月、左大臣藤原時平公が亡くなった。三十九歳。また長男の八条大将保忠、その弟の中納言敦忠、時平の娘(延喜帝の女御である)、孫の東宮までも相次いで亡くなられた。また時平の讒言に加担した菅根朝臣は延喜八年十月に死んだ。これらのことも菅公の祟りだと世に広まったのは、菅公の無実の流罪を世の人が哀れみ悲しんだからだという。

○延長元年三月、保明太子が亡くなられた(時平の孫で、前に東宮と言ったのがこれである)。

○同年四月二十日、正二位を贈られ、本官の右大臣に復された(亡くなられてから二十年)。

○一条院の御代、正暦四年五月二十一日、菅公に正一位左大臣を贈られた(菅公の百年忌にあたる)。

○同年閏十月十九日、太政大臣を贈られた。だからこの御神の御位は正一位太政大臣と知るべきである。後年たびたび神霊のあらたかなしるしがあったので、天満宮、あるいは自在天神の贈り名がある。

○そもそも醍醐天皇は(在位三十二年)百二十代の御皇統の中でも特に御徳がすぐれておられたので延喜の聖代と称し、御在位が長かったので延喜帝とも申しあげる。お若いときとは申しながら、賢者の評判のある重臣の菅公を、時平大臣の一時の讒言を信じられてその真偽もただされず、軽々しく左遷されたのは、御一代の失徳と言うべきだろうか。それを菅公が恨まれなかったことは配所の詩歌でもわかる。菅公は恨まれなくても、賢徳の忠臣の無実の流罪に天が憤って、水害・日照り・風・雷の異変や、讒言した悪人たちの死があったのだろう。俗人がこれを菅公の怨霊とするのは、これまた菅公の賢い行いに傷をつけることである。けれどもひそかに思うに、「賢者は旧悪を思わず」というのも事によるので、無実の流罪の悲しみのあまり、讒言の首謀者である時平大臣を腹の中で深く恨まれたかもしれない。本編に言う逃入村を神が忌まれるのも、そのしるしの一つとすべきだろう。

○亡くなられてから二十八年後の延長八年六月二十六日、大きな雷が清涼殿に落ちて、藤原清貫(大納言)、平希世(右中弁)そのほか伺候していた人々が雷火で即死した。延喜帝は常寧殿にお移りになって雷火を避けられた。これをも菅公の祟りとするのはいよいよ誤った説であると、安斎先生(伊勢平蔵)の『菅像弁』にも言っている。

○大宰府から一里西に天拝山がある。菅公がこの山にのぼって朝廷を恨む告文を天に捧げて祈り、雷神になられたというのは、賢徳のお心を知らない俗人の妄説を今に伝えたものである。『和漢三才図会』にもまことしやかに記しているのは、「不出門行」の御作を深く考えなかったからだろうか。

○法性坊尊意が比叡山にいたとき、菅公の霊が来て「私は無実の流罪の積もる恨みを晴らそうと思う。どうか師の法力で拒まないでほしい」と言った。尊意は「国土はみな王の民である。私がもし帝の詔を受けたなら、避ける所はない」と言った。菅公は気色ばまれ、たまたまざくろを勧めると、菅公はそれを吐いて炎とされたという故事は、『元亨釈書』の妄説に起こる(この書は今、天保十年から五百二十年前、元亨二年の東福寺の虎関和尚の作である)。このような奇怪なことを記すのは仏者の筆癖であると、安斎先生も言っている。

○白太夫というのは伊勢の度会の神職で、菅公と文筆のうえで格別の親友であった。それで北野に祭って今も社がある(この御神のことを作った俗曲に出る梅王・松王・桜丸の名は、あの「梅は飛び」の御歌によって設けた名である)。

○北野の御社のはじめは、天慶五年六月九日から勅命によって建てはじめた。そのおこりは、西の京七条に住んでいた文子という女に神託があったことによる(『北野縁起』にくわしい)。

○世に「渡唐天神」といって、唐服を着て梅の花一枝を持たれた姿を描く。その故事は、仏鑑禅師(聖一国師と諡された。東福寺の開山で、国師号の始まり)が博多に住まわれた跡の地中から掘り出した石に、菅公の霊が中国に渡られて径山寺の無準禅師(聖一国師の師である)に法を受けられて日本へ帰られたと彫りつけてあったと古書に見えるのを根拠として、渡唐の御神影を描き伝えたのである。これはもとより妄説であると安斎先生の『菅像弁』に言う(『菅家聖廟伝暦』という書の付録に、沙門師嵩の『菅神渡唐記』があるが、その説はでたらめに属する)。

○菅公左遷の実際の事跡を載せたものは、○『日本紀略』(抄録で巻数を書きもらした)○『扶桑略記』(巻三十三)○『大日本史』(巻百三十三)の列伝(五十九)○『菅家御伝記』(子孫の菅原陳経朝臣の御作。正史によっておられるので証拠とすべきである)。そのほか虚実入りまじった古今の書籍は数えきれない。

○『本朝文粋』に挙げた大江匡衡の文に「天満自在天神は、あるいは天下に塩梅して一人(帝のこと)を輔導し、あるいは天上に日月として万民を照らしたまう。とりわけ文道の大祖、風月の本主なり」云々。大江家は菅原家とともに朝廷に代々仕える儒臣である。それなのに菅公をこのように崇めたたえている。だからおよそ文の道に関わる者は、この御神を崇めずにいられようか、信じずにいられようか。

○およそ菅公を祭る社には、たいてい雷よけのお守りというものがある。この御神は雷の汚名を受けられたので、神霊が雷を忌まれるから、このお守りは必ず効験があるだろう。

○さてこのように条を立てて説いたのは、本編に言う逃入村の神霊のことにちなんで、実際の事跡を記した書から要点を抜き出し、御神の略伝を子どもたちに示すためである。もとより無学の慰みなので、大事な事跡のもれや説の誤りもあるだろう。畏れ多いことながら、謹んで書き添える。

○再び考えるに、孔子は聖人であって、その霊は生きていたときよりもあらたかで、その墓の十里四方にはいばらが生えず、鳥も巣を作らない。関羽は賢人であって、死んでは神となって祈りに応じる。これは、生きているときは形によってめぐり、死んでは神によってめぐるからだという(『文海披沙』の説)。菅公もこの論に近い。逃入村のことによっても、千年に近い神霊のあらたかなことを仰ぎ敬うべきである。思うに冥界には年月がないと聞くので、百年もなお一日のようなのだろう(菅公の神霊に類することは和漢に多いが、そうそうはとここでは省いた)。

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