百七 逃入村の不思議

北越雪譜 原文
原文現代語訳

小千谷(をぢや)より一里あまりの山手(やまて)に逃入村(にごろむら)といふあり、(にげ入りを里俗にごろとよぶ)此村に大塚(つか)小塚とよびて大小二ツの古墳(こふん)双(なら)びあり。所の伝(つた)へに大なるを時平(しへい)の塚とし、小なるを時平の夫人(ふじん)の塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在(ある)べき由縁(いはれ)なきことは論におよばざる俗説(ぞくせつ)なり。しかれども爰(こゝ)に一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流(なが)されなどして此地に終(をは)りたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習(てならひ)をすれば天満宮の祟(たゝり)ありとて一村の人皆無筆(むひつ)なり。他郷(たきやう)に身(み)を寄(よせ)て手習すれば祟(たゝり)なし。しかれども村にかへれば日を追(おひ)て字(じ)を忘(わす)れ、終(つひ)には無筆となる。このゆゑに文字(もじ)の用ある時は他の村の者にたのみて書用(しよよう)を弁(べん)ず。又此村の子どもなど江戸土産(みやげ)とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟(たゝ)りの兆(しるし)ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳(こふん)なりと古くいひつたふるも何か由縁(ゆえん)ある事なるべし。菅家(くわんけ)の筑紫(つくし)にて薨(こう)じ玉ひたるは延喜(えんぎ)三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)九百十五年前なり。今にいたりても神灵(しんれい)の明々たる事おそるべし尊(たうと)むべし。

さて又これにるゐする事あり、南𧮾(なんけい)が東遊記(とういうき)を見るに、南𧮾東遊して津軽(つがる)に居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居(を)ると旅店毎(やどやごと)にきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城(いはき)は人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社(やしろ)今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦(くるしみ)たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺(さかひ)をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜(さが)すなりといへりと。南𧮾子(なんけいし)此事に遇(あひ)たりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官(いはきはんぐわん)正氏(まさうぢ)在京(ざいきやう)の時讒(ざん)にあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂(ゑんこん)今に消滅(せうめつ)せざる事人知(じんち)を以論ずべからず。(百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考)西遊記(前編)景清(かげきよ)が塚(つか)は日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻(くま)の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村(きりばたむら)にまつる。此所に景清が娘の墳(つか)もあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人(まうじん)を忌(い)む、盲人他処より入れば必祟(たゝり)あり、景清後(のち)に盲人になりしゆゑ、母の灵(れい)盲人(めくら)を嫌ふと所の人のいへりと記(しる)せり。これらの㕝逃入村(にごろむら)の不思議(ふしぎ)に類せり。しかれども件(くだん)の二ツは社(やしろ)ありて丹後の人を忌(いみ)、墓(はか)ありて盲人(めくら)をきらふなり、逃入村(にごろむら)は墳(つか)あるゆゑに天満宮の神灵(しんれい)此地を忌(いみ)玉ふならん。こゝをもつて考(かんが)ふるに、かの古墳(こふん)はいよ〳〵時平が血脉(けちみやく)の人なるべし。

百樹(もゝき)曰(いはく)、余(よ)越遊(ゑついう)して小千谷(をぢや)に在りし時、所の人逃入(にごろ)村の事を語(かた)りて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨(ぶんぼく)の者強(しひ)てゆくべきにもあらねば、話(はなし)をきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言(ざんげん)したる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓(かぶき)狂言にも作りなし、婦女子も普(あまね)く知る所なれど、童稚(どうち)女子(ぢよし)はその実跡(じつせき)をしれるが稀(まれ)なり。さればかゝるはかなき冊子(さうし)に此 御神の事を記(しる)すはいともかしこけれど、逃入村(にごろむら)の因(ちなみ)によりてこゝに書載(かきの)す。

○謹(つゝしん)で案(あんず)るに、菅原(すがはら)の本姓は土師(はじ)なりしが、土師(はじ)の古人(ふるひと)といひしが、 光仁帝(くわうにんてい)の御時、大和国菅原(すがはら)といふ所に住(すみ)たるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真(みちざね)、字(あざな)は三、童名を阿呼(あこ)と申たてまつる。(阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく) 仁明帝(にんみやうてい)に仕へ玉ひたる文章博士(もんしやうはかせ)参議(さんぎ)是善卿(これよしきやう)の第三の御子、承和(じやうわ)十二年に生(うま)れ玉へり。七歳の時紅梅(こうばい)を御覧じて「梅の花紅脂(べに)のいろにぞ似たる哉阿古(あこ)が顔にもぬるべかりけり」十一の春(斉衡二年)父君より月下梅(げつかのうめ)といふ詩(し)の題(だい)を玉ひたる時即坐(そくざ)に「月ノ輝(カヽヤクハ)如シ晴(ハル)、雪ノ梅花ハ似タリ照ル星ニ可シ憐ム金鏡転シテ庭上玉房馨(カンバシ)」御祖父(清公)御父(是善卿)の学業を受嗣(うけつぎ)玉ひて文芸(ぶんげい)はさらなり、武事にも疎(うと)からずまし〳〵けり。

○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生(もんじやうせい)に挙(あげ)られ、下野の権掾(ごんのじやう)にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏(ともうぢ)身まかり玉ひ、 陽成天皇(やうぜいてんわう)の元慶(ぐわんぎやう)四年八月晦日御父是善卿(ぜぜんきやう)も身まかり玉へり。(御年六十九)此時 菅神は御年四十一なり。

○寛平(くわんびやう)四年御年四十八類聚国史(るゐじゆこくし)二百巻を撰(えら)み玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻(後草は筑紫にての御作なり)今も世に伝ふ。大納言公任卿(きんとうきやう)が朗詠集(らうえいしふ)に入れられたる菅家の詩に「送ルハ春ヲ不用ヒ動スコトヲ舟車ヲ唯別ル残鴬ト与トニ落花若(モシ)使シテ韶光ヲ知ラシメバ我ガ意ヲ今𫕟旅宿在ン詩家ニ」此御作は 延喜帝いまだ東宮(とうぐう)たりし時令旨(れいし)ありて一時(ひとゝき)の間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。

○さて御若年より数階(すかい)を歴(へ)給ひて後、寛平(くわんびやう)九年御年五十三権大納言右□将を兼(かね)らる。此時時平(しへい)大納言に任(にん)ぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政(しつせい)たり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝(うだてい)御位(みくらゐ)を太子敦仁(あつひと)親王へ譲(ゆづ)り玉ひ朱雀(すじやく)院へ入らせ玉ひ、亭子(ていじ)院と申奉り、御法体(ほつたい)ありては 寛平法皇(くわんびやうほふわう)とぞ申奉る。 敦仁(あつひと)親王を 醍醐(だいご)天皇とも後(のち)よりは延喜帝とも申奉る。(御年十三)年号を昌泰(しやうたい)と改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶(あひとも)に 帝(みかど)を補佐(ほさ)し奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳(さいとく)年齢(ねんれい)双璧(さうへき)をなさず、故に心齟齬(そご)して相和(くわ)せず。是(これ) 菅神の讒毒(ざんどく)を得(え)玉ふの張本(ちやうぼん)なり。

○そも〳〵時平公は大職冠九代の孫照(そんせう)宣(ぜん)公の嫡男(ちやくなん)にて、代々□臣の家柄(いへがら)なり。しかのみならず延喜帝の皇后(きさき)の兄(あに)なり。このゆゑに若年にして□臣の貴重(きちやう)に職(しよく)ししなり。此人の乱行(らんぎやう)の一ツを言(いは)ば、叔父(をぢ)たる大納言国経卿(くにつねきやう)は年老(としおい)、叔母(をば)たる北の方は年若く業平(なりひら)の孫女(まごむすめ)にて絶世(ぜつせい)の美人(びじん)なり。時平是に恋々(れん〳〵)す、夫人(ふじん)もまた夫(をつと)の老(おい)たるを嫌(きら)ふの心あり。時平或日(あるひ)国経(くにつね)の許(もと)に宴(えん)し、酔興(すゐきやう)にまぎらして夫人(ふじん)を貰(もら)はんといひしを、国経も酔(ゑひ)たれば戯言(たはぶれごと)とおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥(ゑひふし)たるを見(み)て叔母(をば)を車にいだき入れて立かへり、此腹(はら)に生れたるを中納言敦忠(あつたゞ)といふ、時平の不道(ふだう)此一を以て其余(そのよ)を知(し)るべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の(帝の御父)御心には時平の任(にん)を除(のぞ)き 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝(みかど)亭子院(ていじゐん)へ朝覲(てうきん)のをりから御内心を示(しめ)し玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅(ないちよく)ありしに 菅神固(かたく)辞(じ)したまひしに許(ゆる)し玉はざりけり。(同月七日従二位にすゝみ玉へり)此密事(みつじ)いかにしてか時平公の聞(きゝ)にふれしかば、事に先(さきん)じて 帝に讒(ざん)するやうは、君の御弟斉世(ときよ)親王は道真(みちざね)の女(むすめ)を室適(しつてき)して寵遇(ちようぐう)厚(あつ)し。是以(こゝをもつて)君を廃(はい)して親王を立、国柄(こくへい)を一人の手に握(にぎら)んとの密謀(みつぼう)あり 法皇(ほふわう)も是に応(おう)じ玉ふの風説(ふうせつ)ありと言(ことば)を巧(たくみ)に讒(ざん)しけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后(きさき)は時平公の妹なれば内外より讒毒(ざんどく)を流して若帝(わかみかど)の御心を動(うごか)し奉りたるなり。

○さて時平が毒奏(どくそう)はやく中(あた)りて、同月廿五日左降(さがう)の宣旨(せんじ)下りて右□臣の職(しよく)を削(けづ)り、従二位はもとのごとく太宰権帥(だざいごんのそつ)とし(文官)筑紫(つくし)へ左遷(させん)に定め玉へり。 寛平(くわんびやう)法皇此事を聞(きこ)しめして大におどろかせ給ひ、御車(みくるま)にもめし玉はず俄に御沓(くつ)をすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯(かく)と申せとおほせありしかども左右の諸陣警固(けいご)して事を通ぜず、是も時平が讒(ざん)に一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐(むしろにざし)玉ひ終日庭上(には)に御(ましま)し晩(くれ)にいたりてむなしく本院へ還□(かへらせ)玉へり。

○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流(ながさ)れ玉ふ、是も時平が毒舌(どくぜつ)によれり。姫(ひめ)たちは都にとゞまり幼(をさな)きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃(としごろ)愛(めで)玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風(こち)吹(ふか)ば匂ひをこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘(わすれ)ぞ」此梅つくしへ飛(とび)たる事は挙世(よのひと)の知る処なり。又桜を「桜花主(ぬし)を忘(わす)れぬものならば吹こん風にことつてはせよ」

○斯(かく)て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨(すま)の浦に日を移(うつ)しつくしへ抵(いた)りたまへり。(やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。)

○筑紫(つくし)太宰府(だざいふ)にて「離レテ家ヲ三四月 落涙百千行 万事ハ皆如シ夢ノ 時々仰(アヲク)彼蒼(ヒサウヲ)」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝(あした)かくるゝ人もなければやきてしぬれ衣(きぬ)ひるよしもなき」(ぬれぎぬとは無実(むじつ)のつみにかゝるをいふなり)

○つくしにいたり玉ひては不出門行(ふしつもんかう)といふ詩(し)を作り玉ひて、寸歩(すんほ)も門外(もんのそと)へいで玉はず。是朝廷(てうてい)を尊(たうとみ)恐(おそれ)、御身の謫官(てきくわん)たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼ハ纔(ワズカニ)看(ミ)瓦ノ色ヲ 観音寺ハ只(タヾ)聴ク鐘ノ声ヲ」

○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ(十二巻)左遷より後のを菅家後草とて(一巻)今も世につたふ。後草に九月十三夜の題(だい)にて「去年今夜侍(ジシキ)清涼ニ 秋思ノ詩篇独リ断ツ膓(ハラワタヲ) 恩賜ノ御衣今在此(コヽニアリ) 捧持(サヽゲモチテ)毎日拝ス余香ヲ」此御作に注(ちゆう)あり、その趣(おもむき)は、○去年とは昌泰(しやうたい)三年なり(延喜元年の一年まへ)其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候(じかう)ありし時、秋思といふ題(だい)を玉はりしに、詩(し)の意(こゝろ)にことよせて諫(いさめ)たてまつりしに、其いさめを容(いれ)玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所(はいしよ)にもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香(よかう)を拝(はい)すと、 帝(みかど)をしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠(まこと)を作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実(むじつ)の流罪(るざい)に所(しよ)して露ばかりも帝を恨(うら)み玉はざりしを知るべし。朝廷(てうてい)を怨(うら)み給ひて魔道(まだう)に入り、雷公(かみなり)になり玉ひたりといふ妄説(まうせつ)は次に弁(べん)ずべし。

○高辻の御庭の桜枯(かれ)たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」

○さて太宰府に謫居(てききよ)し給ふ事三年(みとせ)にして延喜三年正月の頃より 御心例(れい)ならず、二月廿五日太宰府に薨(こう)じ玉へり、御年五十九。御墓(はか)は府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺(くわん)をいだしけるに途中(とちう)にとゞまりてうごかず、則(すなはち)その所に葬り奉る、今の 神庿(しんべう)是なり。

○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始(はじめ)て 菅神の神殿を建らる。味酒(あぢさけ)の安行(やすゆき)といふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流(はいる)をゆるされ玉ひ、おの〳〵故(もと)の位にかへされ玉ふ。

○神(かん)去(さり)玉ひしのち水旱風雷(すゐかんふうらい)の天変(へん)しば〳〵ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟(たゝ)りなるらんなど風説しけるとかや。

○菅神薨去(こうきよ)より七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨(こう)ず、歳三十九。又一男八条の大将保忠(やすたゞ)、その弟中納言敦忠(あつたゞ)および時平の女(むすめ)、(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきて薨(こう)ぜらる。又時平の讒毒(ざんどく)に荷担(かたん)したる菅根(すがね)の朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布(るふ)せしは 菅公の冤謫(ゑんてき)を世の人哀(あはれみ)戚(なげ)きたるゆゑとかや。

○延長元年三月保明(やすあきら)太子薨去(こうきよ)。(時平の孫、まへに東宮といひし是也。)

○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復(かへ)し玉ふ。(神さり給ひしより二十年。)

○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈(おく)らる。(菅神百年御忌にあたる。)

○同年閏十月十九日大政□臣を贈(おく)らる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年(こうねん)屡(しば〳〵)神灵(しんれい)の赫々(かく〳〵)たる徴(しるし)ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称(さうしよう)あり。

○そも〳〵 醍醐(だいご)天皇は(在位卅二年)百廿代の御皇統(くわうとう)の中にも殊に御徳達(とくたつ)たりしゆゑ、延喜の聖代(せいだい)と称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者(けんしや)の聞(きこ)えある重臣の 菅公を時平大臣(おとゞ)が一時の讒口(ざんこう)を信じ玉ひて其実否をも糺(たゞ)し玉はず、卒尓(そつじ)に菅公を左遷(させん)ありしは 御一代の失徳(しつとく)とやいふべき。しかるを 菅神の恨(うら)み玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳(けんとく)忠臣の冤謫(ゑんてき)を天のいきどほりて水旱(すゐかん)風雷(ふうらい)の異変(いへん)、讒者(ざんしや)奸人(かんじん)の死亡(しばう)ありしならん。俗子(ぞくし)は是を 菅神の怨灵(おんりやう)とするは是又 菅神の賢行(けんかう)に瑾(きず)つけるなり。しかれども竊(ひそか)に謂(おもへら)く、賢者(けんしや)は旧悪(きうあく)をおもはずといふも事にこそよれ、冤謫(ゑんてき)懆愁(さうしう)のあまり讒言(ざんげん)の首唱(しゆしやう)たる時平大臣(しへいのおとゞ)を肚中(とちゆう)に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村(にごりむら)を神の忌(いみ)玉ふも其徴(しるし)とするの一ツなるべし。

○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕(おち)て藤原清貫(きよつら)(大納言)平稀世(たひらのまれよ)(右中弁)其外侍候(じかう)の人々雷火に即死(そくし)す、 延喜帝常寧殿(じやうねいでん)に渡御ありて雷火を避(さけ)たまふ。是をも 菅神の祟(たゝり)とするはいよ〳〵非説(ひせつ)なりと、安斎(あんさい)先生(伊勢平蔵)の菅像弁(くわんざうべん)にもいへり。

○太宰府より一里西に天拝山(はいさん)あり。 菅神この山にのぼりて朝廷(てうてい)を怨(うら)む告文(かうぶん)を天に捧(さゝげ)て祈(いの)り、雷神となり玉ひしといふは、賢徳(けんとく)の御心をしらざる俗子(ぞくし)の妄説(まうせつ)を今に伝(つた)へたるなり。和漢三才図会(づゑ)にも実(まこと)しやかに記(しる)したるは、不出門行(ふしつもんかう)の御作に心を深(ふか)めざるにやあらん。

○法性坊尊意(そんい)叡山(えいざん)に在し時 菅神の幽灵(いうれい)来り我冤謫(むしつのながされ)の夙懟(ふるきうらみ)を償(むくはん)とす、願くは師の道力をもつて拒(こばむ)ことなかれ。尊意曰、卒土(そつと)は皆王民なり、我もし 皇(みかど)の詔(みことのり)をうけ玉はらば避(さく)るに所なし。菅神怍色(はづるいろ)あり、適(たま〳〵)柘榴(さくろ)を薦(すゝむ)、 菅神哺(たべかけ)を吐(はき)て焔(ほのふ)をなし玉ひしといふ故事(ふること)は、元亨釈書(げんかうしやくしよ)の妄説(まうせつ)に起(おこ)る。(此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なり)かゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖(ふでくせ)なりと、安斎(あんさい)先生もいへり。

○白太夫といふは伊勢渡会(わたらひ)の神職(しんしよく) 菅神文墨(ぶんぼく)に於格外の懇友(こんいう)なり、ゆゑに北野に祀(まつ)りて今も社あり。(此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。)

○北野の御社の始(はじめ)は天慶(てんきやう)五年六月九日より勅命(ちよくめい)によりて建創(たてはじむ)。其起りは西の京七条に住(すみ)たる文子(あやこ)といふ女に神託(たく)ありしによりてなり。(北野縁起につまびらかなり。)

○世に渡唐(とたう)の天神といひて唐服(たうふく)に梅花一枝(いつし)を持玉ふを画く。故事(ふること)は、仏鑑禅師(ぶつかんぜんじ)(聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖)博多(はかた)に住玉ひたる跡(あと)の地中より掘いだしたる石に 菅神の灵(れい)唐土(もろこし)へ渡り玉ひて経山寺(きんざんじ)の無準禅師(むじゆんぜんじ)に(聖一国師の師なり)法を受(うけ)玉ひて日本(ひのもと)へ帰(かへ)り玉ひたりと、件(くだん)の石に彫(ほり)つけありしと古書(こしよ)に見えたるを拠(よりところ)として、渡唐(とたう)の 神影(しんえい)を画き伝(つた)へたるなり。此事固(もとより)妄説(まうせつ)なりと安斎先生の菅像弁(くわんざうべん)にいへり。(菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。)

○菅神左遷(させん)の実跡(じつせき)を載(のせ)たるは、○日本紀略(きりやく)(抄録に巻序を失意せり)○扶桑略記(ふさうりやくき)(巻卅三)〇日本史(し)(百卅三)の列伝(れつでん)(五十九)〇菅家御伝記(神統(かみのみすゑ)菅原陳経(のぶつね)朝臣御作正史によられたれば証とすべし)其余(そのよ)虚実(きよじつ)混合(こんがふ)したる古今の書籍(しよじやく)枚挙(まいきよ)すべからず。

○本朝文粋(ぶんすゐ)に挙(あげ)たる大江匡衡(まさひら)の文に「天満自在天神或は塩梅於天下(てんかをあんばいして)輔導一人(いちにんをほだうし)(帝の御こと)或日月於天上(てんしやうにじつげつして)照臨万民(まんみんをせうりんす)就中(なかんづく)文道之大祖(ぶんだうのたいそ)風月之本主(ふうげつのほんしゆ)也(なり)」云云。大江家(け)は 菅原家と倶(とも)に 朝廷(てうてい)に累世(だい〳〵)する儒臣(じゆしん)なり。しかるに 菅神を崇称(あがめたゝへ)たる事件(くだん)の文の如し。是以(こゝをもつて)凡(すべて)文道に関(あづかる)者此 御神を崇(あがめ)ざらんや、信ぜざらんや。

○およそ 菅神を祀(まつ)る社(やしろ)にはおほかたは雷除(らいよけ)の護府(まもり)といふ物あり。此 御神雷の浮名(うきな)をうけ玉ひたるゆゑ、 神灵(しんれい)雷(らい)を忌(いみ)玉ふゆゑに此まもりかならず験(しるし)あるべし。

○さて如件(くだんのごとく)条説(でうせつ)するは、本編にいへる逃入村(にごろむら)の 神灵(しんれい)の事に因(ちなみ)て実跡(じつせき)の書どもを摘要(てきえう)して御神の略伝(りやくでん)を児曹(こども)に示(しめ)すなり。固(もとより)不学(ふがく)のすさみなれば要跡(えうせき)の漏(もれ)たるも説(せつ)の誤謬(あやまり)たるもあるべし。あなかしこ謹(つゝしん)で附記(ふき)す。

○再(ふたゝび)按(あんず)るに、孔子の聖(せい)なるもその灵(れい)は生(いけ)る時よりも照然(せうぜん)として、その墓(はか)十里荊棘(けいきよく)を生ぜず、鳥も巣(す)をむすばず。関羽(くわんう)の賢(けん)なるも死(し)しては神となりて祈(いのる)に応(おう)ず。是則(これすなはち)生(いきて)は形(かたち)を以て運(めぐ)り、死(しゝ)ては神(たましひ)を以て運(めぐる)ゆゑなりとかや。(文海披沙の説)菅神も此論(ろん)に近し。逃入村(にごろむら)の事を以ても千年にちかき神灵(しんれい)の赫々(かく〳〵)たること仰(あふ)ぐべし敬(うやま)ふべし。盖(けだし)冥々(めい〳〵)には年月を置(おか)ずときけば百年も猶(なほ)一日の如くなるべし。(菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。)

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