小千谷より一里あまりの山手に逃入村といふあり、(にげ入りを里俗にごろとよぶ)此村に大塚小塚とよびて大小二ツの古墳双びあり。所の伝へに大なるを時平の塚とし、小なるを時平の夫人の塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在べき由縁なきことは論におよばざる俗説なり。しかれども爰に一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流されなどして此地に終りたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習をすれば天満宮の祟ありとて一村の人皆無筆なり。他郷に身を寄て手習すれば祟なし。しかれども村にかへれば日を追て字を忘れ、終には無筆となる。このゆゑに文字の用ある時は他の村の者にたのみて書用を弁ず。又此村の子どもなど江戸土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳なりと古くいひつたふるも何か由縁ある事なるべし。菅家の筑紫にて薨じ玉ひたるは延喜三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)九百十五年前なり。今にいたりても神灵の明々たる事おそるべし尊むべし。
さて又これにるゐする事あり、南𧮾が東遊記を見るに、南𧮾東遊して津軽に居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居ると旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城は人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへりと。南𧮾子此事に遇たりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官正氏在京の時讒にあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂今に消滅せざる事人知を以論ずべからず。(百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考)西遊記(前編)景清が塚は日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつる。此所に景清が娘の墳もあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人を忌む、盲人他処より入れば必祟あり、景清後に盲人になりしゆゑ、母の灵盲人を嫌ふと所の人のいへりと記せり。これらの㕝逃入村の不思議に類せり。しかれども件の二ツは社ありて丹後の人を忌、墓ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑに天満宮の神灵此地を忌玉ふならん。こゝをもつて考ふるに、かの古墳はいよ〳〵時平が血脉の人なるべし。
百樹曰、余越遊して小千谷に在りし時、所の人逃入村の事を語りて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨の者強てゆくべきにもあらねば、話をきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言したる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓狂言にも作りなし、婦女子も普く知る所なれど、童稚女子はその実跡をしれるが稀なり。さればかゝるはかなき冊子に此 御神の事を記すはいともかしこけれど、逃入村の因によりてこゝに書載す。
○謹で案るに、菅原の本姓は土師なりしが、土師の古人といひしが、 光仁帝の御時、大和国菅原といふ所に住たるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真、字は三、童名を阿呼と申たてまつる。(阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく) 仁明帝に仕へ玉ひたる文章博士参議是善卿の第三の御子、承和十二年に生れ玉へり。七歳の時紅梅を御覧じて「梅の花紅脂のいろにぞ似たる哉阿古が顔にもぬるべかりけり」十一の春(斉衡二年)父君より月下梅といふ詩の題を玉ひたる時即坐に「月ノ輝如シ晴、雪ノ梅花ハ似タリ照ル星ニ可シ憐ム金鏡転シテ庭上玉房馨」御祖父(清公)御父(是善卿)の学業を受嗣玉ひて文芸はさらなり、武事にも疎からずまし〳〵けり。
○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生に挙られ、下野の権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏身まかり玉ひ、 陽成天皇の元慶四年八月晦日御父是善卿も身まかり玉へり。(御年六十九)此時 菅神は御年四十一なり。
○寛平四年御年四十八類聚国史二百巻を撰み玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻(後草は筑紫にての御作なり)今も世に伝ふ。大納言公任卿が朗詠集に入れられたる菅家の詩に「送ルハ春ヲ不用ヒ動スコトヲ舟車ヲ唯別ル残鴬ト与トニ落花若使シテ韶光ヲ知ラシメバ我ガ意ヲ今𫕟旅宿在ン詩家ニ」此御作は 延喜帝いまだ東宮たりし時令旨ありて一時の間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。
○さて御若年より数階を歴給ひて後、寛平九年御年五十三権大納言右□将を兼らる。此時時平大納言に任ぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政たり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝御位を太子敦仁親王へ譲り玉ひ朱雀院へ入らせ玉ひ、亭子院と申奉り、御法体ありては 寛平法皇とぞ申奉る。 敦仁親王を 醍醐天皇とも後よりは延喜帝とも申奉る。(御年十三)年号を昌泰と改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶に 帝を補佐し奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳年齢双璧をなさず、故に心齟齬して相和せず。是 菅神の讒毒を得玉ふの張本なり。
○そも〳〵時平公は大職冠九代の孫照宣公の嫡男にて、代々□臣の家柄なり。しかのみならず延喜帝の皇后の兄なり。このゆゑに若年にして□臣の貴重に職ししなり。此人の乱行の一ツを言ば、叔父たる大納言国経卿は年老、叔母たる北の方は年若く業平の孫女にて絶世の美人なり。時平是に恋々す、夫人もまた夫の老たるを嫌ふの心あり。時平或日国経の許に宴し、酔興にまぎらして夫人を貰はんといひしを、国経も酔たれば戯言とおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥たるを見て叔母を車にいだき入れて立かへり、此腹に生れたるを中納言敦忠といふ、時平の不道此一を以て其余を知るべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の(帝の御父)御心には時平の任を除き 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝亭子院へ朝覲のをりから御内心を示し玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ありしに 菅神固辞したまひしに許し玉はざりけり。(同月七日従二位にすゝみ玉へり)此密事いかにしてか時平公の聞にふれしかば、事に先じて 帝に讒するやうは、君の御弟斉世親王は道真の女を室適して寵遇厚し。是以君を廃して親王を立、国柄を一人の手に握んとの密謀あり 法皇も是に応じ玉ふの風説ありと言を巧に讒しけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后は時平公の妹なれば内外より讒毒を流して若帝の御心を動し奉りたるなり。
○さて時平が毒奏はやく中りて、同月廿五日左降の宣旨下りて右□臣の職を削り、従二位はもとのごとく太宰権帥とし(文官)筑紫へ左遷に定め玉へり。 寛平法皇此事を聞しめして大におどろかせ給ひ、御車にもめし玉はず俄に御沓をすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯と申せとおほせありしかども左右の諸陣警固して事を通ぜず、是も時平が讒に一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐玉ひ終日庭上に御し晩にいたりてむなしく本院へ還□玉へり。
○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流れ玉ふ、是も時平が毒舌によれり。姫たちは都にとゞまり幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風吹ば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘ぞ」此梅つくしへ飛たる事は挙世の知る処なり。又桜を「桜花主を忘れぬものならば吹こん風にことつてはせよ」
○斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨の浦に日を移しつくしへ抵りたまへり。(やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。)
○筑紫太宰府にて「離レテ家ヲ三四月 落涙百千行 万事ハ皆如シ夢ノ 時々仰彼蒼」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝かくるゝ人もなければやきてしぬれ衣ひるよしもなき」(ぬれぎぬとは無実のつみにかゝるをいふなり)
○つくしにいたり玉ひては不出門行といふ詩を作り玉ひて、寸歩も門外へいで玉はず。是朝廷を尊恐、御身の謫官たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼ハ纔看瓦ノ色ヲ 観音寺ハ只聴ク鐘ノ声ヲ」
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ(十二巻)左遷より後のを菅家後草とて(一巻)今も世につたふ。後草に九月十三夜の題にて「去年今夜侍清涼ニ 秋思ノ詩篇独リ断ツ膓 恩賜ノ御衣今在此 捧持毎日拝ス余香ヲ」此御作に注あり、その趣は、○去年とは昌泰三年なり(延喜元年の一年まへ)其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候ありし時、秋思といふ題を玉はりしに、詩の意にことよせて諫たてまつりしに、其いさめを容玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所にもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香を拝すと、 帝をしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠を作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実の流罪に所して露ばかりも帝を恨み玉はざりしを知るべし。朝廷を怨み給ひて魔道に入り、雷公になり玉ひたりといふ妄説は次に弁ずべし。
○高辻の御庭の桜枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
○さて太宰府に謫居し給ふ事三年にして延喜三年正月の頃より 御心例ならず、二月廿五日太宰府に薨じ玉へり、御年五十九。御墓は府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺をいだしけるに途中にとゞまりてうごかず、則その所に葬り奉る、今の 神庿是なり。
○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始て 菅神の神殿を建らる。味酒の安行といふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流をゆるされ玉ひ、おの〳〵故の位にかへされ玉ふ。
○神去玉ひしのち水旱風雷の天変しば〳〵ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟りなるらんなど風説しけるとかや。
○菅神薨去より七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨ず、歳三十九。又一男八条の大将保忠、その弟中納言敦忠および時平の女、(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきて薨ぜらる。又時平の讒毒に荷担したる菅根の朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布せしは 菅公の冤謫を世の人哀戚きたるゆゑとかや。
○延長元年三月保明太子薨去。(時平の孫、まへに東宮といひし是也。)
○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復し玉ふ。(神さり給ひしより二十年。)
○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈らる。(菅神百年御忌にあたる。)
○同年閏十月十九日大政□臣を贈らる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年屡神灵の赫々たる徴ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称あり。
○そも〳〵 醍醐天皇は(在位卅二年)百廿代の御皇統の中にも殊に御徳達たりしゆゑ、延喜の聖代と称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者の聞えある重臣の 菅公を時平大臣が一時の讒口を信じ玉ひて其実否をも糺し玉はず、卒尓に菅公を左遷ありしは 御一代の失徳とやいふべき。しかるを 菅神の恨み玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳忠臣の冤謫を天のいきどほりて水旱風雷の異変、讒者奸人の死亡ありしならん。俗子は是を 菅神の怨灵とするは是又 菅神の賢行に瑾つけるなり。しかれども竊に謂く、賢者は旧悪をおもはずといふも事にこそよれ、冤謫懆愁のあまり讒言の首唱たる時平大臣を肚中に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村を神の忌玉ふも其徴とするの一ツなるべし。
○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕て藤原清貫(大納言)平稀世(右中弁)其外侍候の人々雷火に即死す、 延喜帝常寧殿に渡御ありて雷火を避たまふ。是をも 菅神の祟とするはいよ〳〵非説なりと、安斎先生(伊勢平蔵)の菅像弁にもいへり。
○太宰府より一里西に天拝山あり。 菅神この山にのぼりて朝廷を怨む告文を天に捧て祈り、雷神となり玉ひしといふは、賢徳の御心をしらざる俗子の妄説を今に伝へたるなり。和漢三才図会にも実しやかに記したるは、不出門行の御作に心を深めざるにやあらん。
○法性坊尊意叡山に在し時 菅神の幽灵来り我冤謫の夙懟を償とす、願くは師の道力をもつて拒ことなかれ。尊意曰、卒土は皆王民なり、我もし 皇の詔をうけ玉はらば避るに所なし。菅神怍色あり、適柘榴を薦、 菅神哺を吐て焔をなし玉ひしといふ故事は、元亨釈書の妄説に起る。(此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なり)かゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖なりと、安斎先生もいへり。
○白太夫といふは伊勢渡会の神職 菅神文墨に於格外の懇友なり、ゆゑに北野に祀りて今も社あり。(此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。)
○北野の御社の始は天慶五年六月九日より勅命によりて建創。其起りは西の京七条に住たる文子といふ女に神託ありしによりてなり。(北野縁起につまびらかなり。)
○世に渡唐の天神といひて唐服に梅花一枝を持玉ふを画く。故事は、仏鑑禅師(聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖)博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に 菅神の灵唐土へ渡り玉ひて経山寺の無準禅師に(聖一国師の師なり)法を受玉ひて日本へ帰り玉ひたりと、件の石に彫つけありしと古書に見えたるを拠として、渡唐の 神影を画き伝へたるなり。此事固妄説なりと安斎先生の菅像弁にいへり。(菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。)
○菅神左遷の実跡を載たるは、○日本紀略(抄録に巻序を失意せり)○扶桑略記(巻卅三)〇日本史(百卅三)の列伝(五十九)〇菅家御伝記(神統菅原陳経朝臣御作正史によられたれば証とすべし)其余虚実混合したる古今の書籍枚挙すべからず。
○本朝文粋に挙たる大江匡衡の文に「天満自在天神或は塩梅於天下輔導一人(帝の御こと)或日月於天上照臨万民就中文道之大祖風月之本主也」云云。大江家は 菅原家と倶に 朝廷に累世する儒臣なり。しかるに 菅神を崇称たる事件の文の如し。是以凡文道に関者此 御神を崇ざらんや、信ぜざらんや。
○およそ 菅神を祀る社にはおほかたは雷除の護府といふ物あり。此 御神雷の浮名をうけ玉ひたるゆゑ、 神灵雷を忌玉ふゆゑに此まもりかならず験あるべし。
○さて如件条説するは、本編にいへる逃入村の 神灵の事に因て実跡の書どもを摘要して御神の略伝を児曹に示すなり。固不学のすさみなれば要跡の漏たるも説の誤謬たるもあるべし。あなかしこ謹で附記す。
○再按るに、孔子の聖なるもその灵は生る時よりも照然として、その墓十里荊棘を生ぜず、鳥も巣をむすばず。関羽の賢なるも死しては神となりて祈に応ず。是則生は形を以て運り、死ては神を以て運ゆゑなりとかや。(文海披沙の説)菅神も此論に近し。逃入村の事を以ても千年にちかき神灵の赫々たること仰ぐべし敬ふべし。盖冥々には年月を置ずときけば百年も猶一日の如くなるべし。(菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。)