百八 田代の七ツ釜

北越雪譜 原文
原文現代語訳

魚沼郡の官駅(くわんえき)十日町の南七里計(ばかり)、妻在庄(つまりのしやう)の山中(此へんすべて上つまりといふ)に田代(たしろ)といふ村あり。村を去(さる)事七八町に七ツ釜といふ所あり、(里俗滝つぼを釜といふ)滝七段(だん)あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子(てうし)の口不動滝(ふどうたき)などいふも七ツ釜の内にて、妙景(めうけい)奇状(きじやう)筆(ふで)をもつて云(いふ)べからず。第七番目の釜の地景(ちけい)を爰(こゝ)に図(づ)するをみて其大概(たいがい)をしるべし。此所の絶壁(ぜつへき)を竪御号(たておがう)横御号(よこおがう)といふ、里俗(りぞく)伊勢より御師(おんし)の持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁(ぜつへき)の石かの箱の状(かたち)に似(に)たるをもつて斯(かく)いふなり。その似(に)たりといふは此ぜつへきの石どもの落(おち)てあるを視れば、厚(あつ)さ六七寸計(ばかり)にして平(ひら)みあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工(いしや)の作りなしたるが如し。此石数百万を竪(たて)に積重(つみかさ)ねて、此数十丈の絶壁(ぜつへき)をなす也。頂(いたゞき)は山につゞきて老樹(らうじゆ)欝然(うつぜん)たり、是右の方の竪御(たてお)がうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積(つみ)かさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀(ぎやうぎ)よくつみあげたるごとく寸分の斜(ゆがみ)なし、天然(てんねん)の奇工(きこう)奇々妙々不可思議(ふかしぎ)なり。此石の落たるを此田代村(たしろむら)の者(もの)さま〴〵の物に用ふ、片石(へんせき)にても他所に用ふれば祟(たゝり)ありし事度々なりとぞ。余(よ)文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景(きけい)を尋(たづね)て目撃(もくげき)したるを記す。天の茫(ばう)々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑(しばら)くその類(るゐ)を示(しめ)す。

○百樹(もゝき)曰、余(よ)仕(つかへ)に在し時同藩の文学関先生の話(はなし)に、 君侯(くんこう)封内(ほうない)の(丹波笹山)山に天然(てんねん)に磨(ひきうす)の状(かたち)したる石をつみあげて柱(はしら)のやうなるを並(ならべ)て絶壁(ぜつへき)をなし、満山(まんざん)此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨(ひきうす)の状(かたち)の石を産する所ありと春暉(しゆんき)が随筆(ずゐひつ)にて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。

○又尾張の名古屋の人吉田重房が著(あらは)したる筑紫記行(つくしきかう)巻の九に、但馬国(たじまのくに)多気郡(たけこほり)納屋村(なやむら)より川船にて但馬の温泉(いでゆ)に抵(いた)る途中(みち)を記(しる)したる条(くだり)に曰(いはく)、○猶舟にのりて行(ゆく)。右の方に愛宕山(あたごさん)、宮島(みやしま)村、野上(のかみ)村、石山(いしやま)(地名)など追続(おひつゞき)てあり。此石山の川岸に臨(さしかゝ)れる所に奇(めづら)しき石あり、其形(かた)ち磨磐(ひきうす)の如く、上下平(たひらか)にして周(めぐり)は三角四角五角八角等にして、石工(いしや)の切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡(あと)もありて洞(ほら)のごとし。天下の広(ひろ)きには珍奇(ちんき)なる事おほきものなりけり云云。是も奇石(きせき)の一類(るゐ)なれば筆の次(ついで)にしるしつ。

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