百九 異獣

北越雪譜 原文
原文現代語訳

魚沼郡堀内(ほりのうち)より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道(かんだう)なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮(ちゞみ)なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼(ひる)すぐる頃竹助といふ剛夫(がうふ)をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途(みち)も梢々(やゝ)半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰(こし)かけ焼飯(やきめし)をくひゐたるに、谷間(たにあひ)の根笹(ねさゝ)をおしわけて来(きた)る者あり、ちかくよりたるを見れば猿(さる)に似(に)て猿にもあらず。頭(かしら)の毛(け)長く脊(せ)にたれたるが半(なかば)はしろし、丈(たけ)は常並(つねなみ)の人よりたかく、顔(かほ)は猿に似て赤からず、眼(まなこ)大にして光りあり。竹助は心剛(がう)なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提(ひつさげ)、よらば斬(きら)んと身(み)がまへけるに、此ものはさる気色(けしき)もなく、竹助が石の上におきたる焼飯(やきめし)に指(ゆびさ)しくれよと乞(こ)ふさまなり。竹助こゝろえて投与(なげあた)へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる〴〵とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨(けんそ)の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村(いけだにむら)ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語(かた)りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり〳〵は此異獣(いじう)を見たるものもありしとぞ。

○前にいふ池谷村の者の話(はなし)に、我れ十四五の時村うちの娘に機(はた)の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱(まど)のもとに機(はた)を織(おり)てゐたるに、囱(まど)の外(そと)に立(たち)たるをみれば猿のやうにて顔(かほ)赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独(ひと)りなればことさらに惧(おそ)れおどろき、逃(にげ)んとすれど機(はた)にかゝりたれば腰(こし)にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃(めしびつ)に指(ゆびさ)して欲(ほし)きさまなり、娘此異獣(いじう)の事をかねて聞(きゝ)たるゆゑ、飯を握(にぎ)りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり〳〵来りて飯を乞(こ)ふゆゑ、後には馴(なれ)ておそろしともおもはずくはせけり。

○さて此娘、 尊用なりとて急(いそぎ)のちゞみをおりかけしに、折(をり)ふし月水(ぐわつすゐ)になりて 御機屋(はたや)に入る事ならず。(御機屋の事初編に委しく記せり)手を停(とゞ)め居(を)れば日限に後(おく)る、娘はさらなり、双親(ふたおや)も此事を患(うれ)ひ歎(なげ)きけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農(のう)業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議(ふしぎ)とおもひながら身をきよめて御機(はた)を織果(おりはて)、その父問屋へ持去(もちさ)り、往着(ゆきつき)しとおもふ頃娘時ならず俄(にはか)に紅潮(つきやく)になりしゆゑ、さては我が歎(なげき)しを聞(きゝ)てかのもの我を助(たすけ)しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語(かたれ)り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連(つれ)ある時は形(かたち)を見せずとぞ。又高田の藩士(はんし)材用にて樵夫(きこり)をしたがへ、黒姫(くろひめ)山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似(に)て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火(たきび)にあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪(あかきかみ)、裸身(はだかみ)、通身(みうち)灰色(はいいろ)にて、毛(け)の脱(ぬけ)たるに似(に)たり、腰(こし)より下に枯(かれ)草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴(なれ)しと高田の人のかたりき。按(あんず)るに和漢(わかん)三才図会(づゑ)寓類(ぐうるゐ)の部(ぶ)に、飛騨美濃(ひだみの)あるひは西国の深山(しんざん)にも如件(くだんのごとき)異獣(いじう)ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

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