五十五代(ある本には、田邑帝と申し上げる、とある。)
「文徳天皇と申し上げた帝は、仁明天皇の第一皇子です。お名前は道康、ご母后は太皇太后藤原順子と申し上げました。その后は左大臣・贈正一位太政大臣冬嗣公の御娘です。この帝は天長四年丁未八月にお生まれになり、お心は聡明で、よく人をお見抜きになりました。承和九年壬戌二月二十六日にご元服、同じ年の八月四日に東宮にお立ちになりました。御年十六。仁明天皇が、もとからいらっしゃった東宮(恒貞親王)を廃して、この帝を承和九年八月四日に東宮にお立てになったのです。もとの東宮はどんなにか心穏やかでなくお思いになったことだろうと思われます。嘉祥三年庚午三月二十一日に即位なさいました。御年二十四。そして世をお治めになること九年。天安二年戊寅の年八月二十七日に崩御なさいました。御年三十二。御陵は田村にあります。ご母后は十九でこの帝をお産みになりました。嘉祥三年庚午の年四月に皇太夫人にお立ちになりました。
御年四十三。斉衡元年甲戌に皇太后にお上がりになりました。貞観三年辛巳二月二十九日にご出家。(灌頂をお受けになった。)同じ八年丙戌正月七日、太皇太后にお上がりになりました。この方を五条の后と申し上げます。『伊勢物語』で業平の中将が『よひよひごとにうちもねななむ(毎晩毎晩、番人が寝てしまってくれればよいのに)』とお詠みになったのは、この宮のお邸でのことのようです。どういうことかというと、二条の后のもとに通っておられたあいだのことだと聞き及んでおります。『春やむかしの』の歌なども、五条の后のお邸でのこととありますのは、二条の后がこの宮とは親しいご縁の間柄で、その宮に養われていらっしゃったので、同じ所に住んでおられたのでしょうか。