六 宇多天皇

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

五十九代(この帝は業平の中将と相撲をおとりになり、負けて高欄が壊れたことがある。まだ臣下でおられたときのことである。)

次の帝は亭子の帝と申し上げました。小松の帝の第三皇子です。お名前は定省、ご母后は皇太后班子と申し上げました。二品式部卿・贈一品太政大臣仲野親王の御娘です。この帝は貞観九年丁亥五月五日にお生まれになりました。元慶八年甲辰四月十三日に源氏の姓を賜わって臣下になられました。御年十八。王侍従などと呼ばれて殿上人でいらっしゃったとき、殿上の間の御椅子の前で業平の中将と相撲をおとりになったところ、御椅子に投げつけられて、高欄が折れてしまいました。その折れ目が今も残っております。仁和三年丁未八月二十六日に東宮にお立ちになって、同じ日に即位なさいました。御年二十一。世をお治めになること十年。寛平元年己酉十一月二十一日の酉の日に、賀茂の臨時の祭が始まりました。これはこの御代からのことです。勅使は右近衛中将時平。(北野の天神の仇敵である本院の大臣のことである。

)昌泰元年戊午四月十日に出家なさいました。この帝がまだ即位なさらなかったころ、十一月二十日過ぎに賀茂の社のあたりで鷹狩りをして遊び歩いておられたとき、賀茂の明神がお告げをなさったことには、『わたしはこのあたりにおります老人です。春は祭りが多くございます。冬はたいそう退屈ですので、祭りをしていただきたい』とおっしゃいました。そのとき、賀茂の明神がおっしゃっているのだとお思いになって、『わたしには力が及びません。朝廷に申し上げなさるべきことでございましょう』と申し上げなさると、『力がお及びになるはずだからこそ申すのです。あまり軽々しいふるまいをなさいますな。こう申すのにはわけがあるのです。そのときは近づいております』と言って、かき消すようにお消えになりました。どういうことかと合点がゆかずにお思いになっていたところ、このように即位なさったので、臨時の祭をお始めになったのですよ。

賀茂の明神がお告げをして、祭をしてくださいと申しなさった日が酉の日でしたので、そのまま十一月の最後の酉の日に臨時の祭があるのですよ。東遊の歌は敏行の朝臣が詠んだものです。

「ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ代経とも色はかはらじ(賀茂の社の若い小松は、万代を経ても色は変わらないだろう)」。

これは『古今集』に入っております。皆さまご存じのことではありますが、みごとにお詠みになった方ですな。今に絶えず広がっておられるご子孫は、帝と申しても、これほどまでにいらっしゃるでしょうか。祭は即位なさって二年目に始まりました。勅使は右近中将時平の朝臣がお務めになりました。寛平九年七月三日に譲位なさいました。昌泰二年己未十月十四日に出家なさいました。法名は金剛覚と申し上げました。承平元年七月十九日に崩御なさいました。御年六十五。肥前掾の橘良利が殿上に仕えておりましたが、入道して、修行のお供にはこの者だけがお仕えしました。ですから熊野でも、日根という所で『旅寝の夢に見えつるは』とも詠んだのですよ。人々が涙を落とすのも、もっともなほどしみじみとしたことです。この帝が臣下におなりになったいきさつは、はっきりしません。よく覚えておりません。

ご母后は洞院の后と申し上げます。仲野親王は桓武天皇の御孫です。この帝は陽成院の御代に殿上人で、神社への行幸には舞人などをお務めになりました。即位なさってのち、陽成院の御所の前を通って行幸があったときには、陽成院は『今の帝は、わたしの家来ではないか。無礼にも通ることよ』とおっしゃったそうです。

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