二十一 左大臣時平

大鏡 原文
原文現代語訳

このおとゞは基經のおとゞの御太郞なり。御母四品彈正尹人康親王の御むすめ。醍醐のみかどの御とき、この大臣左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとゞ右大臣の位にて坐します。そのをり御門おほん年いと若く坐します。左右大臣に世の政行ふべき宣旨下さしめ給へりしに、そのをり左大臣御年廿八九ばかり、右大臣御年五十七八にやおはしけむ。共に世の政をせしめ給ひし間、右大臣ざえも世にすぐれめでたくおはしまし、御心おきてもことの外にかしこくおはしまし、左大臣は御年もわかくざえも殊の外に劣り給へるにより、右大臣御おぼえことの外におはしましたるに、左大臣安からずおぼしたる程に、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬ事出できて昌泰四年正月廿九日、太宰權帥になし奉りて流されたまふ。

このおとゞの子どもあまたおはせしに、女君だちは聟どりし、男君だちは皆ほどほどにつけて位どもおはせしを、これも皆かたがたに流され給ひてかなしきに、をさなくおはしける男君女君だち慕ひ泣きておはしければ、ちひさきはあへなむとおほやけもゆるさしめ給ひしかば共にゐてくだり給ひしぞかし。みかどの御おきて極めてあやにくにおはしませば、この御子どもを同じ方にだに遣さゞりけり。かたがたにいと悲しくおぼして御まへの梅の花を御らんじて、

「こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」。

又ていしの御門に聞えさせたまふ。

「流れゆくわれはみくづとなりはてぬ君しからみとなりてとゞめよ」。

なき事によりかく罪せられ給ふをかしこくおぼし歎きて、やがて山崎にて出家せしめ給ひてけり。その程極めて悲しき事おほかり。日ごろへて都遠くなるまゝに、あはれに心ぼそくおぼされて、

「君がすむ宿の梢をゆくゆくとかくるゝまでも顧みしかな」。

又播磨の國におはしつきて、明石のうまやといふ所に御やどりせしめ給ひて、うまやの長のいみじう思へる氣色を御覽じて作らしめ給へる詩いとかなし。

「驛長無驚時變改

一榮一落是春秋」。

かくて筑紫におはしまし着きて、哀に心ぼそくおぼさるゝ夕、をちかたに所々けぶりたつを御覽じて、

「夕されば野にも山にもたつけぶりなげきよりこそもえまさりけれ」。

又、雲の浮きてたゞよふを御覽じても、

「山わかれとびゆく雲のかへりくるかげ見る時は尙賴まれぬ」。

さりともと世をおぼしめされけるなるべし。月のあかき夜、

「海ならずたゞよふ水のそこまでもきよきこゝろは月ぞてらさむ」。

これいと畏くあそばしたりかし。げに月日よりこそは照し給はめとこそはあめれ。誠におどろおどろしきことはさるものにて、かくやうのうたや詩などをさへ、いとなだらかにゆゑゆゑしういひ續け給ふ』と見聞く人めもあやにあさましく哀にもまもりゐたり。物のゆゑ知りたる人なども、むげに近く居よりてほかめせず見聞くけしきどもを見て、いよいよはへて物を繰り出すやうにいひ續くるほどぞ誠にけうなるや。繁樹、淚をのごひつゝけうじゐたり。『筑紫におはします所の御門もかためておはします。大貳の居所ははるかなれども、樓の上のかはらなどの心にもあらず御覽じやられけるに、又いと近く觀音寺といふ寺のありければ、鐘の聲をきこしめして作らせ給へる詩ぞかし。

「都府樓纔看瓦色

觀音寺只聽鐘聲」。

これは文集白居易、遺愛寺鐘欹枕聽、香爐峰雪撥簾看といふ詩にも、まさざまに作らしめ給へりとこそむかしの博士どもの申しけれ。又かの筑紫にて、九月十日菊の花を御覽じけるついでに、まだ京におはしましゝ時、九月の今宵內裏にて菊の宴ありしに、このおとゞ作らしめ給へりける詩を御門かしこく感じたまひて御衣たまはり給へりしを、筑紫にもてくだらしめ給へりければ御覽ずるに、いとゞその折おぼしめしいでゝ、作らせ給ひける。

「去年今夜侍淸凉

秋思詩篇獨斷膓

恩賜御衣今在此

捧持每日拜餘香」。

この詩いとかしこく人々感じ申されき。この事ども唯ちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給へりけるを書きあつめ一卷とせしめ給ひて後集となづけられたり。又折々の歌書きおかせ給へりけるを、おのづから世に散りきこえしなり。世繼が若う侍りし時、この事のせめて哀に悲しく侍りしかば、大學の衆どものなまふがうにはいますかりしを問ひ尋ねかたらひとりて、さるべきゑ袋わりごやうの物調じて、うち具してまかりつゝならひとりて侍りしかど、老のけの甚しきことは皆こそわすれ侍りにけれ。これはたゞすこぶる覺え侍るなり』といへば、聞く人々『げにげにいみじきすきものにもものし給ひけるかな。今の人はさる心ありなむや』と感じあへり。『又雨のふる日、うちながめ給ひて

「あめのしたかわける程のなければや着てし濡衣ひるよしもなき」。

やがてかしこにてうせ給へる、夜の內に、この北野にそこらの松をおほさしめ給ひて渡り住み給ふをこそは唯今の北野宮と申して、あら人神におはしますめれ。おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこく崇め奉り給ふめり。筑紫のおはしまし所は安樂寺といひて、おほやけより別當所司などなさせ給ひていとやんごとなし。內裏燒けて度々造らしめ給ひしも、圓融院の御時のことなり。たくみども、裏板どもをいとうるはしくかなかきて罷り出でつゝ、またのあしたに參りて見るに、昨日の裏板に物のすゝけて見ゆる所のありければ、はしにのぼりて見るに、夜の內に蟲のはめるなりけり。そのもじは、「つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあらむかぎりは」とこそありけれ。それもこの北野の顯はし給へるとこそは申すめりしか。

かくてこのおとゞは筑紫におはして、延喜三年みづのとのゐ二月廿五日にうせ給ひしぞかし。御年五十九。さて後七年ばかりありて左大臣時平のおとゞ、延喜九年己巳四月四日うせ給ふ。(去年ばかりやおはしけむ。)御年卅九。大臣の位にて十一年ぞおはしける。本院の大臣と申す。この時平のおとゞのむすめの女御もうせ給ひぬ。御孫の東宮も、一男八條の大將保忠卿もうせ給ひにきかし。この大將八條にすみ給へば、うちに參り給ふほどいとはるかなるにいかゞおぼされけむ、冬はもちひのいと大きなるをぞひとつ、ちひさきをばふたつ燒きてやき石のやうに御身にあてゝ持ちたまへりけるが、ぬるくなれば小きをばひとつづゝ、大きなるをば中よりわりて御車ぞひに投げとらせ給ひける、あまりなる御用意なりかし。

その世にも耳とゞまりて人の思ひければこそかくいひ傳へ侍るらめ。この殿ぞかし、病つきたまひてさまざまのいのりし給ひしに、藥師經の讀經枕上にてせさせ給ふに、いはゆる宮毗羅大將とうちあげたるを、われをくびると讀むなりけりとおぼしける臆病に、やがて絕えいり給へり。經のもんといふ中にもこはき物のけにとりこめられ給へる人に、げに怪しくうちあげ侍るかし。さるべきとはいひながら、物はをりふしことに侍る事なり。その弟の敦忠中納言もうせ給ひにき。世にめでたき和歌の上手、管絃の道にも優れ給へりき。かくれ給ひて後、御遊びなどあるをりに博雅三位のさはる事ありて參られぬ時は今日の御遊はとゞまりぬと度々召されてまゐるを見て、ふるき人々は「世の末こそあはれなれ。敦忠中納言のいませし時はかゝる道にこの三位の、おほやけを始め奉りて、世の大事に思はるべきものにとこそ思はざりしか」とぞのたまひける。

先坊に御息所參り給ふこと、本院のおとゞの御むすめ具して三四人なり。本院のはうせ給ひにき。中將の御息所ときこえし、後はしげあきらの式部卿のみこの北の方にて、齋宮の女御の御母にてそもうせ給ひにき。いとやさしくおはせし先坊を戀ひかなしみたまふ。大輔なむ夢に見奉るときゝておくり給へる、

「時のまもなぐさめつらむ君はさぞゆめにだに見ぬわれぞかなしき」。

御返事、大輔、

「こひしさは慰むべくもあらざりき夢のうちにもゆめと見しかば」。

今一人の御息所は玄上宰相の女にや。其後朝の使に敦忠中納言、少將にてし給ひける。宮うせ給ひて後、この中納言にはあひ給へるを、限なく思ひながら、いかゞ見給ひけむ、文範の民部卿、播磨の守にて殿のけいしにて侍らはるゝを「我は命みじかきぞうなり。かならず死なむず。その後君はこの文範にぞあひ給はむずる」とのたまひけるを「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。世にたがへ給はじ」などのたまひけるが、誠にさていまするぞかし。唯この君たちの御中には大納言源昇の卿御女の腹の顯忠のおとゞのみぞ右大臣までなり給へる。その位にて六年おはせしかど、少しおぼす所やありけむ、出でゝありき給ふにも家のうちにても大臣の作法をふるまひ給はず。御ありきのをりはおぼろげにて御さきつがひ給はず、まれまれもほのかにぞまゐりし。

ごぜんつがひたまはず、僅に數すくなにてぞ侍ひし。御車ぞひ四人つがはせ給はざりき。又はんざふだらひにて御手すまさず、寢殿のひんがしのまに棚をして、小桶にちひさきひさげ具しておかれたれば、仕丁のつとめてごとに湯もて參りて入れければ人してもかけさせ給はず、我出でさせ給ひて御手づからぞすましける。御めしものはうるはしく、ごきなどにもまゐり、すべて只御かはらけにて臺などもなく、折敷にとりすゑつゝぞまゐらせける。儉約し給ひしもさるべきことの折の御座と御ばんどころとにぞ大臣とは見えたまひし。かくもてなし給ひしにや、このおとゞのみぞ御ぞうの中に六十餘までおはせし。四分一の家にて大饗し給へる人なり。富の小路の大臣と申す。これより外の君だち皆三十よ四十にすぎ給はず。

その故はたゞ事にはあらず、この北野の御歎になむあるべき。顯忠大臣の御子、重輔の右衞門佐とて坐せしが御子なり。今の三井寺の別當心譽僧都、山階寺の權別當快公僧都などこの君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言をのこゞあまたおはしける中に兵衞佐なにがしの君とかや申しゝ、その君出家して徃生し給ひにきとか。その僧の御子なり、いはくらの文慶僧都は。敦忠公の御むすめは枇杷の大納言の北の方にておはしきかし。あさましき惡事を申し行ひ給へりし罪により、このおとゞの御末はおはせぬなり。さるはやまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを、延喜の世のなかの作法したゝめさせ給ひしかど、くわさをえしづめさせ給はざりしに、この殿制を破りたる御さうぞくのことの外にめでたきをして、うちに參り給ひて殿上にさぶらひ給ふを、御門こじとみより御覽じて、御氣色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしきところに、左のおとゞの一の人といひながら美麗殊の外にて參れる、びんなきことなり。

速にまかり出づべきよしおほせよ」とおほせられければ、うけたまはるもいかなる事にかとおそれおぼえけれど、參りてわなゝくわなゝくしかじかの事と申しければ、いみじくおどろきて、かしこまりうけたまはりて御隨身のみさきまゐるも制し給ひて急ぎまかり出で給へば、御前どもゝあやしと思ひてなむ。さて本院の御門一月ほどさゝせて御簾のとにも出で給はず、人などの參るとも勘當の重ければとて逢はせ給はざりけり。さりしにこそ世の中に過差はたひらぎたりしか。內々にうけたまはりしかば、さてばかりぞしづまらむとて御門と御心合せさせ給へりけるとぞ。この左大臣物のをかしさぞえねんぜさせ給はざりける。笑ひたゝせ給ひぬれば、すこぶる事も亂れけるが、北野に世をまつりごたせ給ふ間、非道なる事仰せられければ、さすがにやんごとなくてせちにし給ふことをばいかゞはとおぼして、「このおとゞのし給ふことなればふびんなりと見れど、いかゞすべからむ」と歎き給ひけるを、なにがしの史が「事にも侍らず。

おのれがかまへにてかの御事をとゞめ侍らむ」と申しければ、「いとあるまじきこと、いかにしてかはなむ」とのたまはさせけるを、「只御覽ぜよ」とて座に着きて、事きびしく定めのゝしり給ふに、この史、ふんばさみに文はさみて、いらなくふるまひて、このおとゞに奉るとて、いと高やかにならして侍りけるに、おとゞ文もえとらずしてわなゝきてやがて笑ひて、「今日はすぢなし。右のおとゞにまかせ申す」とだにいひやりたまはざりければ、それにこそ菅原のおとゞの心のまゝにまつりごち給ひけれ。又北野の神にならせ給ひていと恐ろしく神なりひらめき淸凉殿に落ちかゝりぬと見えけるに、本院のおとゞ太刀を拔きさげて、「生きても我が次にこそものしたまひしか。今日神となり給ふとも、この世には我に所おき給ふべし。

いかでかさらではあるべきぞ」と睨みやりてのたまひけるに、一度はしづまらせ給へりけるとぞ世の人申し侍りし。されどそれはかのおとゞのいみじくおはするにはあらず、王威のかぎりなくおはしますによりて、理非をしめさせ給へるなり。

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