三十 太政大臣為光

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

「この方は九条殿の九男で、大臣の位に七年、法住寺の大臣と申し上げます。正暦三年六月十六日に亡くなられました。御年五十一。のちの諡は恒徳公と申し上げました。お子は男君七人、女君五人いらっしゃいました。女君のお二人は佐理の兵部卿の妹の腹、もうお三人は一条の摂政の御娘の腹でいらっしゃいます。男君たちの母君は、皆それぞれ別々でいらっしゃいました。女君のお一方(忯子)は花山院の御代の女御で、たいそうご寵愛を受けていらっしゃったときに、ご懐妊なさって八か月で亡くなられました。もうお一方は入道中納言(義懐)の北の方で亡くなられました。長男の君は左衛門督誠信と申し上げましたが、三十八で悪心を起こして亡くなられたありさまは、たいそうあきれたことでしたよ。人に越えられてつらい目を見ることは、よくあることですのに、そうなるべき運命だったのでしょう。

同じ参議・中納言でいらっしゃっても、弟(斉信)よりは人柄も世の評判も劣っていらっしゃったからでしょうか、大納言に空きが出るときに、自分もなりたいとお思いになって、わざわざ弟に会われて、『今度の大納言は望み申されるな。わたしが申すつもりだから』とおっしゃったので、『どうして兄上を差しおいてなりましょう。ましてそうおっしゃったからには、あるべきことではありません』と申されたので、ご満足なさって、そうお思いになって、熱心に望み申されたのですが、それには及ばない程度でいらっしゃったのでしょうか。入道殿(道長)がこの大臣(斉信)に、『そなたは申されないのか』とおっしゃったので、『左衛門督が申されますのでどうして』としぶしぶ申し上げなさると、『あの左衛門督はなれまい。またそなたでなければ、ほかの人がなるだろう』とおっしゃったので、『あの左衛門督がなれないのでしたら、遠慮してもしかたがありません。お受けいたします』と申し上げなさったので、またこういうことなら、ほかの人がどうしてということで斉信がおなりになったのを、どうしてわたしに向かってなるはずがないと言ってだましたのかとお思いになると、いっそう悪心を起こして、除目の翌朝から手を強く握って、『わたしは斉信と道長にしてやられたのだ』と言いこもって、食べ物も少しも召し上がらず、うつ伏しうつ伏していらっしゃるうちに病気になって、七日目に亡くなられましたが、握っていらっしゃった指はあまり強くて、手の甲まで突き抜けて出ていたそうです。

たいへんな酒好きでいらっしゃいました。故中の関白殿(道隆)のある年の臨時客で、ひどく酔って御座に座ったまま立つこともおできにならず、もたれかかられたので、名高い佐理が書いた楽府の屏風にもたれかかって破損してしまったそうです。この大納言になられたのが、今の中宮大夫斉信卿で、たいそう世の評判があり、立派な人でいらっしゃいました。また権中将道信の君は、たいへんな和歌の名手で奥ゆかしい人と言われていらっしゃったのに亡くなられました。またただ今の左衛門督公信卿、法住寺の僧都の君、阿闍梨の君がいらっしゃいます。また一条の摂政殿の御娘の腹の女君たちとして、三・四・五の御方がいらっしゃいます。三の御方は鷹司殿の上といって、尼になっていらっしゃいます。四の御方は今の入道殿(道長)がまだ俗体でいらっしゃった折のお子(実は花山院の御子とも)を産んで亡くなられました。五の君は今の皇后宮(娍子)にお仕えしていらっしゃいます。この大臣のご様子はこういうことです。

ただし法住寺をたいそういかめしくお造りになったのは、摂政・関白をなさらなかった人のなさったこととしては、たいへんな盛儀でした。この大臣はたいそう高貴でいらっしゃいましたが、ご子孫は細々としていますよ。

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