三十一 太政大臣公季

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

この大臣はただ今の閑院の大臣でいらっしゃいます。九条殿の十一男で、御母は内親王でいらっしゃいます。お子の娘(実は有明親王の御娘)を北の方にしていらっしゃいました。そのお腹に女君がお一方、男君がお二方。女君は一条院の御代の弘徽殿の女御(義子)で、今もいらっしゃいます。男君の一人は三昧の僧都如源と申し上げましたが、亡くなられました。もうお一方の男君は、ただ今の右衛門督実成卿でいらっしゃいます。この殿(実成)のお子で、播磨守陳政の御娘の腹に女君がお二方、男君がお一人いらっしゃいます。大姫君は今の中宮の権大夫殿の北の方、もうお一方は源大納言俊賢卿――この方は民部卿と申し上げます――のお子で、ただ今の頭中将顕基の君の北の方でいらっしゃるようです。男君は御祖父の太政大臣殿(公季)がご自分の子になさって、公成とお名づけになったのです。蔵人頭で、たいそう評判の格別な君でいらっしゃいます。

この太政大臣殿のご様子はこういうことです。帝や后はお立てになっていません。この太政大臣殿の御母上は延喜の帝(醍醐天皇)の御娘で、女四の宮(康子内親王)と申し上げました。延喜の帝はたいそうかわいがって大切にしていらっしゃいました。御裳着の屏風に、公忠の弁が「行きやらで」と詠んだのは、この内親王の宮のためのものです。貫之などもたくさん詠みましたが、中でもすぐれていると評判になった歌ですよ。朱雀院・村上二代の帝と同じ腹の妹でいらっしゃいます。さて内裏に住んで大切にされていらっしゃったのを、九条殿が女房を手なずけて、ひそかにお通いになったのですよ。世の人は不都合なことだと申し、村上天皇も心穏やかでないことにお思いになっていましたが、表立ってお咎めにならなかったのも、この九条殿へのご信任が限りなかったからです。さてまた人々がひそひそと噂し、帝のお耳にもまだ入らないころ、雨がひどく降り雷が鳴りひらめいた日、この宮が内裏にいらっしゃったので、「殿上の人々は四の宮の方に参れ。

恐ろしく思っていらっしゃるだろう」と仰せがあったので、だれもが参られたところ、小野宮の大臣(実頼)ですよ、「参らせなくても、(宮のお側には)汚い(九条殿)がいるのに」とつぶやかれたのは。後になって帝は思い当たられたことでしょう。さて九条殿のお屋敷に退出させ申し上げて、大切にお世話申し上げなさったということは、言うまでもありません。そのうちにこの太政大臣を身ごもられて、たいそう心細く思われたので、「わたしはとても生きていられない気がします。まあ見ていてください」と夫君にいつも申し上げなさったので、「本当にそうおなりになるのなら、片時も遅れ申し上げるわけにはいきません。もし心ならずも生きながらえましたら、必ず出家いたしましょう。また二度とほかの人と連れ添うということはあるはずもございません。天を翔けってでもご覧ください」と申し上げなさいました。法師におなりになることはないだろうとお思いになったのでしょうか。

小さな唐櫃一対の、片方には烏帽子を、もう片方には襪(したうず)を、それぞれ一櫃ずつ、ご自身でびっしりと縫い入れておかれたのを、殿はそうとはご存じありませんでした。そうしてとうとう亡くなられたのですよ。ですからこの太政大臣は、お生まれになった日がそのまま母君のご命日でいらっしゃるのです。あの縫い置かれた烏帽子や襪をご覧になるたびに、九条殿は涙を流されない時はありませんでした。本当にその後は独り身のままで終わられました。この生み残された太政大臣殿を、御姉の中宮(安子)は言うまでもなく、並々でなく一族思いでいらっしゃったので、そのままお育てになりました。内裏にばかりいらっしゃって、帝もたいそうかわいいものになさったので、いつも御前に伺候させなさいます。何事も宮たちと同じように大切にお扱い申し上げなさいましたが、お食事をなさる台の高さだけを一寸低くされたのを、はっきりした区別となさいました。

昔は親王たちでも幼くいらっしゃるうちは内裏にお住まいになることはなかったのに、この若君がこうしてお仕えしていらっしゃるので、あってはならないことと非難申し上げましたが、こうしてお育ちになったので、普通の殿上人などとお同じに扱うべきではないものの、お若くいらっしゃったので、自然と戯れなどの折にも並の者のようにふるまわれたので、円融院の帝は同じ年ごろの男の子と思われたのでしょうか、「こうでなければよいのに」などとうなっていらっしゃいました。そうするうちにお年を重ねられて、また御孫の頭中将公成の君をことのほかかわいがられて、内裏にもお車の後ろに乗せて連れて行かれないかぎりは参内なさいません。しかるべき行事の折にも、この君が遅く退出なさると、弓場殿に先払いだけを行かせて待って立っていらっしゃるので、拝見した人が「どうしてそうして立っていらっしゃるのです」と申し上げると、「いや、退出するところです」とおっしゃいました。

無量寿院の金堂供養に東宮が行啓なさったとき、お車に伺候なさって、「ひとすじに公成をお心にかけてくださいませ、お心にかけてくださいませ」と同じことを何度も申し上げなさったのを、「気の毒ではあるが、おかしかった」と東宮はおっしゃったそうです。繁樹の姪の娘で、中務の乳母のところに仕えている者が来て話してくれたのです。頭中将顕基の君に若君がいらっしゃるとか。その五十日の祝いを四条(公季邸)にお移し申し上げて、太政大臣殿が餅を含ませなさいました。御祖父の右衛門督(実成)がお抱き申し上げていたところ、この若君がお泣きになるので、「いつもはこんなにむずからないのに、どうしてこうなのだろう」と右衛門督が立ったり座ったりしてあやし申し上げなさったので、「赤子はおのずとそうしたものだ。おまえもそうだった」と太政大臣殿がおっしゃったので、参っていらっしゃったしかるべき人々は皆ほほえまれました。中でも四位の少将隆国の君は、いつも思い出しては今でも笑っていらっしゃるそうです。

このように、あまりに古風でいらっしゃるのでしょう。昔の幼名は宮雄君(みやおぎみ)と申しましたか。

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