この大臣は、あの大入道殿(兼家)の三男で、粟田殿と申し上げたようです。長徳元年乙未五月二日(正しくは四月二十七日)に関白の宣旨をお受けになって、同じ月の八日に亡くなられました。大臣として五年、関白と申し上げて七日いらっしゃいました。この殿方のご一族で、そのまま世を治められなかった例は多くいらっしゃいますが、こんな例はまだないでしょうよ。夢のようにご覧になったのは、出雲守相如殿の家にちょっとお移りになっていた折に関白の宣旨が下ったので、家の主の喜びようはご想像ください。狭くて儀式の作法もできそうにないというので、お移りになった日に、お礼の参内もなさいました。殿の前駆は何ともいえないほどの者ばかりが選りすぐられていましたが、北の方が二条にお帰りになるお供の人も、よい者も悪い者も数知れず、布衣などの者も混じって、殿をお送り出し申し上げてお移りになったときの、お屋敷の中の栄えている人々の様子は、ただご想像ください。
あまりのことだと見る人もいました。ご気分は少しいつもと違うとお思いになりましたが、自然に治るだろう、縁起でもない、今日のお礼参りは取りやめまいとお思いになって、こらえて参内なさったところ、たいそう苦しくおなりになったので、殿上の間から退出することもおできにならず、御湯殿の馬道の戸口に前駆を呼び寄せて寄りかかり、北の陣からご退出なさるので、これはどうしたことかと人々は拝見します。お屋敷ではいつもより用意をととのえてお待ち申し上げていたのに、人々に寄りかかって冠も乱れ、衣の紐も押し解いて、たいそうひどく苦しそうにお車を下りられたのを拝見なさったお気持ちは、出て行かれた時とは比べものになりません。けれども、いくら何でも大丈夫だろうとささやき合いこそすれ、胸はふさがりながらも気持ちよさそうな顔を作り合っていました。ですから世間ではそれほどひどいとは噂にならず、今の小野宮の右大臣殿(実資)がお祝いに参られた折、母屋の御簾を下ろして呼び入れ申し上げなさいました。
横になったままご対面になって、『乱れ心地がひどくて、外には出られませんので、このようにして申し上げるのです。長年ちょっとしたことにつけても心の中でありがたく思っておりましたが、たいしたこともない身分のうちは、そのたびごとに申し上げることもできずに過ぎてまいりましたが、今はこうなりましたので、公私につけてご恩に報いるつもりです。また大小のことをご相談しようと思いますので、無礼もはばからず、こんなむさくるしい所にお通ししたのです』などと細やかにおっしゃいましたが、言葉も続かず、『ただ推量でこういうことだろうと聞き取れるだけで、お息づかいなどもたいそう苦しそうなのを、たいそうお気の毒なことだと思っていたところ、風が御簾を吹き上げた隙間からのぞきこむと、あれほどの重い病にかかられたのだから、どうして顔色も変わらずにいられよう、きらきらと華やかでいらっしゃった人とも思われず、ことのほか正気もなくなっていらっしゃるとお見えになりながら、先の長いことをおっしゃったのが哀れだった』と、実資は後に語られたそうです。
この粟田殿の男君たちは三人いらっしゃいました。長男の君は福足君と申し上げましたが、幼い人はそんなものだと思っても、たいそうあきれるほどわがままで乱暴でいらっしゃいました。東三条殿(兼家)の六十の御賀に、この君に舞をおさせ申し上げようと習わせなさったときも、ひねくれて嫌がっていらっしゃいましたが、いろいろなだめすかし、祈祷までして教え申し上げたところ、その日になって、たいそう立派に装束をおつけ申し上げなさったのに、舞台の上にお上りになって、楽の調子を吹き始めるときに、『いやだ、わたしは舞わないぞ』と言って、角髪(みずら)を引き乱し、装束をばりばりと引き破りなさったので、粟田殿は顔を真っ青になさって、茫然としていらっしゃるご様子を、そこにいる人は皆そう思うことだと見ていましたが、どうしようもないところに、御叔父の中の関白殿(道隆)が下りて舞台にお上りになったので、言いなだめなさるのか、また憎さに耐えきれず追い下ろされるのかと、あれこれ見ておりましたところ、この君を腰のあたりに引き寄せて、ご自身でたいそう上手に舞わせなさったのは、楽もいっそう面白く聞こえ、あの君の恥も隠れ、その日の興はことのほか増したのでした。
祖父殿も嬉しいとお思いになりました。父大臣は言うまでもなく、よその人までわけもなく感心申し上げました。このように人のために情け深いところがおありだったのに、どうしてご子孫が絶えておしまいになったのでしょう。この君(福足君)は、ほかに人もいるのに、蛇をいじめなさって、そのたたりで頭に腫れ物ができて亡くなられました。この弟の次男の君、今の左衛門督兼隆卿は大蔵卿(遠量)の娘の腹です。この左衛門督のお子は男女大勢いらっしゃいます。大姫君は三条院の三の皇子の敦平の中務の宮を、この二月でしたか、婿にお迎えになって、仲むつまじくいらっしゃるようです。また姫君が四人いらっしゃいます。また粟田殿の三男の前頭中将兼綱の君、その君が祭の日にお作らせになった車はたいそう趣深いものでした。檜網代というものを張って、的の形に彩色されていたもので、車の横の物見窓を弓の形に仕立て、縁を矢の形にされていた様子が面白かったのです。
和泉式部の君が歌を詠まれました。
「とをつらのうまならねども君のれば車もまとに見ゆるものかな(遠く連なる馬〈遠矢の的〉ではないけれど、あなたが乗ると、車も的に見えることですよ)」。
さてよい趣向と思われましたが、人の口はうるさいもので、「賀茂明神の御矢を目に受けなさった」と言い立てたので、たいそう具合が悪くなって沙汰やみになりました。この君は蔵人頭を取り上げられなさったので、たいそうお気の毒なことでございました。頭になって驚き喜ぶべきほどの身分でもありませんが、それでもしかるべきことだったのに、粟田殿は花山院をだまして退位させ申し上げ、左衛門督(兼隆)は小一条院をだまして東宮を退かせ申し上げなさったので、帝や東宮のあたりに近づかない方がよいご一族だということになってしまったのですよ。たいそう面白いことでございましたな。どなたもご存じのことですが、男君たちはこのようです。女君は故一条院の御乳母の藤三位(繁子)の腹にお生まれになった方で、そのままその御代の「くらべやの女御」と申し上げ、のちにこの大蔵卿通任の君の北の方として亡くなられたのですよ。正妻の腹に神仏に祈ってお生まれになった君は、今の中宮(威子)に二条殿の御方としてお仕えしていらっしゃるようです。
父殿は女の子をほしがって願を立てられましたが、お顔さえご覧になれずに終わりました。このようにしみじみとしたことが世にはございますよ。その殿の北の方は、粟田殿の亡き後は、堀河殿(兼通)のお子の左大臣(顕光)の北の方として長年いらっしゃると聞いております。その北の方は九条殿のお子の大蔵卿の君(遠量)の娘ですよ。そういうわけで、この粟田殿のご様子は、ことのほかあっけないものでいらっしゃいました。実のところ、お心がたいそう意地悪く恐ろしくて、人々がたいそう恐れていらっしゃった殿が、不思議にも子孫が続かずに終わられました。この殿は父大臣の喪中にも喪の御殿などにもいらっしゃらず、暑さにかこつけて御簾も上げ渡して、ご念誦などもなさらず、しかるべき人々を呼び集めて、『後撰集』『古今集』を広げて冗談を言っては遊んで、少しもお嘆きになりませんでした。そのわけは、花山院を自分こそがだまして退位させ申し上げたのだ、だから関白も自分にお譲りになるべきだったのだ、というお恨みだったのです。
世間離れしたことですな。さまざまによくないことが聞こえましたが、傅殿(道綱)とこの入道殿(道長)のお二方は、作法どおりに孝養を尽くされたと承っております。