三十三 内大臣道隆

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

内大臣道隆(正暦六年三月某日、病により関白を辞す。四月六日出家。十月〈正しくは四月〉薨去。四十二〈四十三とも〉。)

「この大臣は東三条の大臣(兼家)の長男です。御母は女院(詮子)と同じです。関白になって栄えられて六年ほどいらっしゃったでしょうか、大疫病の年に亡くなられました。けれどもその疫病によってではなく、お酒が過ぎてのご病気だったのです。男は酒好きをひとつの興とするものですが、度を越すとたいそう困る折がございますよ。祭の帰りの行列をご覧になろうとして、小一条の大将(済時)、閑院の大将(朝光)と一つ車で紫野にお出かけになりました。鳥がうずくまった形の瓶をお作らせになって、面白いものにお思いになり、何かといえばお酒を入れて召し上がります。今日もそれでお出しします。もてはやしていらっしゃるうちに、だんだん度が過ぎてからは、お車の後ろの簾を皆上げて、お三方とも髻をあらわにしていらっしゃったのは、たいそう見苦しいことでした。だいたいこの大将殿たちが参られて、普通の様子で帰られるのを、たいそう不本意で残念なことにお思いになっていました。

正体もなくなり、装束も乱れて、車を寄せては人に寄りかかってお乗りになるのを、たいそう面白いことになさいました。ただしこの殿は、酔いのひどさの割には早く醒めることがおできになりました。賀茂詣の日は、社頭で三度の盃を差し上げるのが決まりですが、この方の御代には禰宜や神主も心得て、大盃を差し上げたので、三度は言うまでもなく七、八度も召し上がって、上社に参られる道では、そのままあおむけに車の後ろを枕にして正体なく寝てしまわれました。一の大納言としてはこの御堂(道長)がいらっしゃったので、ご覧になると、夜に入ったので御前の松明の光が透けて見えるのに、関白のお姿の影がないのは妙だとお思いになっていると、上社に着いてお車の轅を下ろしても、お気づきになりません。どうしたものかと思っても、前駆の者たちもお起こし申し上げることができずにただ控えているようなので、入道殿が車からお下りになって、そのままにしておくわけにもいかないので、轅の外から高らかに『もしもし』と扇を鳴らしなどなさいましたが、お目覚めにならないので、近寄って表袴の裾を荒々しくお引きになると、そのときにお目覚めになって、そういう用意には慣れていらっしゃったので、櫛や笄を持っていらっしゃったのを取り出して身づくろいなどしてお下りになりましたが、少しもそんな様子もなくすっきりしていらっしゃったので、あれほど酔った人が、その夜のうちに起き上がれるものでしょうか。

それこそこの殿の酒好きは見事でいらっしゃったのです。そのお心を最期までお忘れにならなかったのでしょうか、ご病気で亡くなられるとき、西に向けて寝かせ申し上げて『念仏をお唱えなさいませ』と人々がお勧め申し上げると、『済時や朝光なども極楽にいるだろうか』とおっしゃったのは、しみじみとしています。いつも心に慣れ親しんで思っていらっしゃったことなので、あの地獄の釜の蓋に頭をぶつけて三宝の御名を思い出したという人のようなことですな。お振る舞いはたいそう気高くいらっしゃいましたよ。帥殿(伊周)に天下執行の宣旨をお下し申し上げるために、この民部卿殿(俊賢)が頭弁として参られたとき、ご病気がひどく重くて装束もお着けになれなかったので、直衣のまま御簾の外にいざり出ていらっしゃるにも、長押を下りるのに難儀されて、女装束を手に取って、形ばかり禄としておかぶせになったのが、たいそうしみじみといたしました。

『ほかの人があれほど病み衰えたら、見られないありさまになるはずなのに、やはりたいそう清らかで気品がおありだったので、病気になってこそ、顔立ちの良さは必要なのだと思われた』と民部卿殿はいつもおっしゃるそうです。その関白殿には、あちこちの腹に男女のお子がたくさんいらっしゃいました。正妻の北の方は大和守高階成忠殿の御娘(貴子)です。成忠はのちに高二位と呼ばれました。さて積善寺の供養の日、この入道殿(道長)より上座にいましたのは、たいそう珍しいことでしたな。その腹に男君三人、女君四人がいらっしゃいました。大姫君(定子)は、一条院が十一で元服なさったときに、十五で入内なさったでしょうか。すぐにその年(正暦元年)の十月に后にお立ちになります。中宮と申し上げました。さて関白殿などが亡くなられた後に、男皇子をお一人、女皇子をお二人お産みになりました。女宮(脩子内親王)は入道の一品の宮として三条にいらっしゃいます。

女二の宮(媄子内親王)は九歳で亡くなられました。男皇子は式部卿の宮敦康親王と申し上げました。たびたびご期待が外れて、世の中をお嘆きになって亡くなられました。御年二十九で、あっけなく終わってしまわれましたよ。冷泉院の宮たちなどのように軽々しくいらっしゃったなら、世の人もお気の毒さを少しは軽く思い申し上げたでしょうに。学才もたいそう深く、お心ばえもたいそうすばらしくいらっしゃいました。さてこの宮の御母后の妹の中の御方(原子)は、三条院が東宮と申し上げた折の淑景舎の女御として華やかでいらっしゃいましたが、父殿が亡くなられた後、御年二十二、三ほどで亡くなられました。三の御方は、冷泉院の四の皇子で帥の宮(敦道親王)と申し上げた方を父殿が婿にお迎えになりましたが、後々はそのままお仲が絶えてしまったので、晩年は一条あたりにたいそうみすぼらしくお住まいだと噂されました。本当でしょうか、お心ばえなどがたいそう落ち着かない方でいらっしゃったので、一方では宮もお疎みになったとか。

僧や客人などが参った折には、御簾をたいそう高く押しやって、胸もとを広げてお立ちになっていたので、宮はお顔を赤くしていらっしゃいました。お仕えする人々も顔色が変わる心地がして、うつ伏して、立つのもきまりが悪くどうしようもありませんでした。宮は後に、『振り返ったままで身動きもできず、何もわからなくなった』とおっしゃったそうです。また学生たちを呼び集めて作文の遊びをなさったとき、黄金を二、三十両ほど屏風の上から投げ出して人々にお与えになったので、ふさわしくない、いやなことだとは思われましたが、その場ではご機嫌をとり申して奪い合いました。『金をいただいたのはよかったが、まったく見苦しいことだった』と今でも申されるそうです。人々が詩を作って講じたりするときにも、よしあしをたいそう高い声でお判じになる折もありました。高二位の新発意(成忠)のお血筋で、このご一族は女も皆学才がおありになったのです。

母上は高内侍(貴子)ですよ。けれども殿上は許されなかったので、行幸や節会などには紫宸殿に参られました。それは本格的な漢学の才のある人で、帝の御前の作文の会には詩を差し上げられましたよ、少々の男よりはすぐれていると評判でございました。そのような折に召されたときにも、台盤所の方からは参られず、弘徽殿の上の御局の方から通って、二間に控えていらっしゃったと承っております。古風なことでしょうか。女があまり学才が深いのはよくないと人は申すそうですが、この内侍が後にはたいそうひどく落ちぶれてしまわれたのも、そのせいだと思われました。さてその宮の上(帥宮の北の方)のすぐ下の四の御方は、御匣殿と申し上げ、お顔立ちがたいそう美しくて、式部卿の宮(敦康)の母代わりでいらっしゃいましたが、早くに亡くなられました。同じ腹の女君たちはこのようです。対の御方と申し上げた人の腹にも女君がいらっしゃったのは、今の皇太后宮(妍子)にお仕えしていらっしゃるそうです。

ほかに評判の男君たちとしては、長男の君は、故伊予守守仁殿の娘の腹ですよ。大千代君(おおちよぎみ)といって、祖父の大臣(兼家)のお子にしていただいて、道頼、六郎君と申しました。大納言までなられました。父の関白殿が亡くなられた年の六月十一日に、続いて亡くなられました。御年二十五と聞いております。お顔立ちがたいそうきれいで、あまりに惜しいほどの様子で、絵から抜け出たようでいらっしゃいました。お心ばえはほかのご兄弟にも似ず、たいそうよく、またしゃれて面白くもいらっしゃいました。この殿は別の腹でいらっしゃいます。皇后宮(定子)と同じ腹の君で、法師として十歳あまりで僧都におなし申し上げた方(隆円)も、三十六で亡くなられました。もうお一方は小千代君(伊周)といって、のちに、別腹の大千代君をはるかに越えて、二十一でいらっしゃった時に内大臣におなし申し上げ、関白ご自身が亡くなられた年、長徳元年のことです、ご病気が重くなるときに内裏へ参られて、『わたしがこのようになっております間は、この内大臣伊周の大臣に、百官ならびに天下の執行を任せる宣旨をお下しください』と申してお下させになり、ご自分はご出家なさったので、この内大臣殿を関白殿と思って世の人が集まって参ったのに、関白が粟田殿(道兼)に移ってしまったので、手に据えた鷹を逃がしたような気持ちでお嘆きになります。

ご一家でたいへんなことだとお心を乱していらっしゃるうちに、その関白の移った方(道兼)も夢のようにあっけなく亡くなられたので、今の入道殿(道長)がその年の五月十一日から世の政治をおとりになったので、あの殿(伊周)はいっそう立場がなくなっていらっしゃるうちに、翌年に花山院の事件が起こって、官位を取り上げられて、ただ太宰権帥になって、長徳二年四月二十四日にお下りになったのですよ。御年二十三。どれほどしみじみと悲しいことでしたか。けれども本当に、必ずしもこうしたことは、ご自分の落ち度で流されなさるわけでもありません。何事も身に余るほどの人には、唐土にもこの国にもあることなのでございます。昔は北野(菅原道真)のことがありましたよ」などと言って鼻をかむのも、しみじみと見えます。「この殿も学才が日本には余るほどでいらっしゃったので、このようなこともおありになったのでございます。さて式部卿の宮(敦康)がお生まれになった喜びで召し返されなさいました。

さて大臣に準ずるという宣旨をいただかれて、出歩いていらっしゃったありさまも、まったく落ち着いたものとは思われませんでした。たいそう見苦しいことばかりがどんなにか聞こえてきたことか。内裏に参られたとき、北の陣からお入りになって西の方へいらっしゃると、入道殿も伺候していらっしゃる時だったので、梅壺の東の塀の間に下人たちがたいそう大勢いたのを、この帥殿のお供の人々がひどく追い払うので、行き場がなくて梅壺の塀の中にばらばらと入ったのを、これはどうしたことかと殿(道長)がご覧になります。怪しいと人々は見ましたが、さすがにどうすることもできないでいると、だれそれという随身がそ知らぬふりをして、『何だ』とひどく追い出したので、また外の方へたいそう騒がしく出てきたのを、帥殿のお供の人々は今度は追い払いきれず、帥殿は太っていらっしゃる人なので、すばやくお歩きにもなれず、登華殿の細殿の蔀に押しつけられなさって、『おいおい』とおっしゃいましたが、狭い所で大勢の雑人が追い払われて押しかかってきたので、すぐにはお逃れになれず、たいそうお気の毒なことでございました。

それは本当にご自身の罪ではありませんが、ただ華やかなお出歩きやふるまいをなさらなければ、そのような軽々しいことがおありになるはずがありましょうか、ということですよ。また入道殿が御嶽に参詣なさった道中で、帥殿の方から不都合なことがあるはずだと噂が立って、いつもより用心なさって無事にお帰りになったので、『あの殿もこういう噂を聞いたそうです』と人が申したので、帥殿はたいそう決まり悪くお思いになりながら、そうかといって参らないわけにもいかないので参られました。道中の話などをなさるときに、帥殿がひどく臆していらっしゃるご様子がはっきりしているのを、入道殿はおかしくも、またさすがに気の毒にもお思いになって、『長らく双六をしないでたいそう物足りないので、今日お打ちなさい』と言って双六盤を取り寄せてお拭わせになると、帥殿のご機嫌がすっかり直ってお見えになったので、殿をはじめとして参っていらっしゃった人々は、しみじみと拝見しました。

あれほどの噂をお聞きになったのですから、冷たくお扱いになってもよいはずですが、入道殿はどこまでも情けのおありになるご性分で、人がそう思っているだろうことを、かえって親しくお扱いになるのです。この賭け事は、始められると、お二人とも裸になって腰に衣を巻きつけて、夜中や明け方までなさいます。帥殿は思慮の浅くいらっしゃる人なので、困ったことでも起こるのではないかと、人は感心申し上げませんでした。たいへんな賭け物がございました。帥殿は何ともいえない古い品々を、入道殿は新しく趣のあるものを、面白く趣向をこらしては互いに取り交わしなさいましたが、こんなことでさえ帥殿はいつもお負けになって退出なさいました。それでも帥殿は今は一の宮(敦康)がいらっしゃるのを頼もしいものにお思いになり、世の人もそうはいっても内心ではへつらい恐れ申し上げていたところに、今の帝(後一条)と東宮(後朱雀)が続いてお生まれになったので、世をお思い沈みになって、何か月もご病気になられて、寛弘七年正月二十九日に亡くなられたのですよ。

御年三十七と承りました。最期のご病気といってもひどく苦しまれることもありませんでした。咳の病だろうかなどと思われているうちに重くなられたので、修法をしようと僧をお呼びになりましたが参る者がいないので、どうしようもなく、道雅の君を使いとして入道殿に申し上げなさいました。夜がたいそう更けて人も寝静まっていたので、道雅は格子のそばに寄って咳払いをなさいます。『だれか』とお尋ねになると、名乗り申し上げて、『これこれのことで修法を始めようとしておりますが、阿闍梨として参る人もおりませんので、遣わしていただきたい』と申し上げると、『たいそうお気の毒なことだ。まったく存じ上げなかった。どのようなご気分なのか。たいへんなことではないか』とたいそう驚かれて、『だれを呼んで参らないのか』と詳しくお尋ねになります。だれそれ阿闍梨を差し向けなさいました。

けれども末の世は人の心も弱くなってしまったのでしょうか、帥殿が(霊となって)悪さをなさるなどと申しましたが、元方の大納言(の怨霊)のように評判になることがございましょうか。また入道殿の、やはりすぐれていらっしゃるご威光がたいへんなものだからでございましょう。老いの身で言い過ぎもいたしますよ」と、意味ありげにこのあたりはひそひそ声になります。「源大納言重光卿の御娘の腹に、女君二人、男君三人いらっしゃいましたが、この君たちが皆大人になられて、女君は后候補として大切にお育てになっていたところ、さまざまお思いになったことが外れて、このようにご病気まで重くなられたので、この姫君たちを並べて座らせ、泣く泣くおっしゃいました。『長年神仏にたいそうお仕えしてきたので、何事もいくら何でもと頼りにしておりましたが、このようにふがいない死に方をすることの悲しさよ。こうなると知っていたら、そなたたちをこそわたしより先に亡くなってくださいと祈るべきだった。わたしが死んだら、どんなふるまいやありさまをなさることかと思うのが悲しく、人の笑い者になりそうなことよ』と言い続けてお泣きになります。

『もしみっともないありさまをなさったら、わたしが亡き後でも必ずお恨み申し上げるぞ』と、母北の方にも泣く泣く遺言なさいましたよ。その君たちのうち、大姫君は高松殿腹の春宮大夫殿(頼宗)の北の方で、たくさんの君たちを次々にお産みになっていらっしゃるようです。それは悪いことではありません。もうお一方は大宮(彰子)に参って、帥殿の御方としてたいそう重々しくお仕えしていらっしゃるようで、思いもかけないご様子のようです。気の毒なことですね。男君は松君といって、お生まれになった時から祖父の大臣(道隆)がたいそう大切にお思いになって、お迎えになるたびに贈り物をなさいます。御乳母にもご馳走をなさった君ですよ。このごろ三位でいらっしゃるようなこの君(道雅)を、父大臣は『よいか、わたしの亡き世にあるまじきことをせず、また見捨てがたいからといって、わけのわからない名簿を差し出して(人に臣従し)、わたしの面目をつぶして、いやあの方はああだったが、こうなったのだよと人に言われるようなことはするなよ。世の中で生きていけなくなった時は、出家するしかない』と泣く泣くお言い聞かせになりましたが、この君は今の帝が東宮でいらっしゃった時の亮におなりになって、たいそう見苦しくないことと拝見していたところ、春宮亮道雅の君として、たいそう評判がおありでしたよ。

それもどうしたことでしょう、帝が位にお即きになった後に蔵人頭にもおなりになれず、東宮坊の官人としての功労で三位くらいにはなられましたが、中将さえ兼ねずに終わってしまわれたのは、たいそう悲しいことでしたよ。あきれた思いがけないことどもですな。この君は故帥の中納言惟仲の娘のもとに通われて、男の子をお一人お生ませになりましたが、その子は法師で明尊僧正の御坊にいらっしゃるようです。女君はどう思われたのでしょう、ひそかに逃げて今の皇太后宮(妍子)に参って、大和の宣旨としていらっしゃるそうです。ですから長年の妻だからといって頼りにできたものでしょうか。かえってその妻こそが、ばかにしてばかばかしい扱いをしたのです。ああ、翁の娘がそのようでございましたら、白髪も剃り、鼻もそぎ落としてしまうでしょうに。高貴な人というものは、たいしたこともない名でも惜しむものなので、どうともなさらないのでしょう。そうはいっても、あの君はそんなに愚かな人でしょうか。

才覚のある君だというので、帥殿はこの帝がお生まれになった七夜の祝いに、和歌の序題をお書きになったのですよ。かえって思慮のないことでしたな。本来なら参られるはずもないのに、そこに出ていらっしゃったので、多くの人が目をつけ申し上げ、どうお思いなのだろう、何のために参られたのかとばかり見つめられなさいます。たいそう居心地の悪いことではありませんか。それでもこの入道殿がまことにこのように冷たくなくお扱い申し上げなさったかいがあって、憎らしいほど見事にお書きになりました。その場の面目は立派で、それで人々もお認め申し上げなさったのです。この帥殿と同じ腹で、十七で中納言になるなどして、世の中の血気盛んな者と言われなさった殿(隆家)の幼名は阿古君ですよ。この兄殿の騒ぎに巻き込まれて、出雲権守になって但馬にいらっしゃいました。さて帥殿がお帰りになったとき、この殿も上京なさって元の中納言になられました。

また兵部卿などとも申し上げました。この方もたいそう気骨がおありだと世の人に思われていらっしゃいました。たくさんの人々の下位になって、何かと興ざめにお思いになりながら宮仕えしていらっしゃいましたが、入道殿の賀茂詣にお供なさったとき、ひどく下座にいらっしゃるのがお気の毒で、殿のお車にお乗せ申し上げて、こまやかにお話しになったときに、『先年のことは、わたしが申し行ったのだと世間では言っていたそうです。そなたもそう思われたでしょう。けれどもそうではなかったのです。宣旨にないことを一言でも加えておりましたら、この御社にこうして参れましょうか。天道もご覧になっているだろうと思うと恐ろしいことです』と真心をこめておっしゃったのが、かえって顔の置き場もなく、どうしようもなく思われた、と隆家は後におっしゃいました。それもこの殿(隆家)だからこそ、そのようにもおっしゃったのでしょう。帥殿にはそこまでは申し上げなさったでしょうか。

この中納言殿は、このように避けられない方面の折々だけ出歩かれて、まったく昔のように宮仕えなさることはなかったのですが、入道殿の土御門殿で管絃の遊びがあったとき、『こういうことに権中納言がいないのは、やはり物足りない』とおっしゃって、わざわざお便りを差し上げなさるうちに、盃も何度も回って、人々は乱れて衣の紐を解いてくつろいでいらっしゃったところへ、この中納言が参られたので、人々はきちんとして座り直しなどなさったので、殿が『さあ紐をお解きなさい。座がしらけてしまいます』とおっしゃったので、中納言がかしこまってためらっていらっしゃるのを、公信卿が後ろから解いてさしあげようとして寄られると、中納言殿はご機嫌が悪くなって、『隆家は不運なことはあるが、そなたたちにこのようにされる身ではない』と荒々しくおっしゃったので、人々の顔色が変わった中でも、今の民部卿殿(俊賢)は顔をこわばらせて人々の顔をあれこれ見ながら、騒ぎが起こりそうだ、たいへんなことだとお思いになりました。

入道殿はお笑いになって、『今日はこのような戯れ事はなしにしましょう。道長がお解きいたしましょう』と言って、近寄って、はらはらとお解き申し上げなさったので、隆家は、これこそしかるべきことだと言ってご機嫌が直って、置かれていた盃を取って何度も召し上がり、いつもより乱れて遊ばれたさまなど、申し分なくいらっしゃいました。殿もたいそうもてはやし申し上げなさいました。さて式部卿の宮(敦康)のことを、いくら何でも、いくら何でもと(即位を)待っていらっしゃったところ、一条院のご病気が重くなられた時に御前に参られて、ご意向を伺われると、『案じていたことは、ついにかなわなくなってしまった』とおっしゃったので、『ああ、人でなしよ、と申し上げたかった』とおっしゃったそうです。さて退出なさって、ご自分の家の日隠しの間に腰をかけて、手をはたはたと打っていらっしゃいました。

世の人は、宮のことが実現して、この殿が後見もなさったなら、天下の政治はきちんと整うだろうと思い申し上げていましたが、この入道殿のご栄華が分けられるはずのないことだったのでしょう。三条院の大嘗会の御禊に華やかに装っていらっしゃったさまなどは、いつもより格別でした。人が、このたびはいくら何でもしょげていらっしゃるだろうと思っていたのを、裏切ってやろうとお思いになったのでしょう。そういうところがおありだったので、節会や行幸には掻練襲(かいねりがさね)はお召しにならないものなのに、単衣を青くつけていらっしゃったので、紅葉襲のように見えました。表袴は竜胆の二重織物で、たいそうすばらしく、美しく輝いていらっしゃいました。お目を悪くされたのは、まことに惜しいことでした。いろいろと治療なさいましたが、お悩みになって宮仕えも絶えていらっしゃったころ、太宰大弐の欠員が出て、人々が望んで騒いでいたときに、宋の人で目を治療する者がいるというので見せようとお思いになって、『試しになりたいものだ』と申されたところ、三条院の御代で、また気の毒にもお思いになったのでしょうか、ふたことなくおなりになったのですよ。

その北の方は伊予守兼資殿の御娘です。そのお腹の女君がお二人いらっしゃいました。お一方は三条院の御子の式部卿の宮(敦儀親王)の北の方、もうお一方は傅殿(道綱)のお子の今の宰相中将兼経の君の北の方と聞いております。お二人の婿をお迎えになって、たいそう大切にお世話申し上げていらっしゃるようです。善政をなさるというので、筑紫の人はこぞってお従い申し上げました。普通の大弐(の任期)なのに、十年ほどでお上りになったと申しましたか。あの国にいらっしゃった間、刀伊国の者がにわかにこの国を討ち取ろうと思ったのでしょうか、攻めてきたときに、筑紫ではかねての用意もなく、大弐殿は弓矢のことも何もご存じないのでどうなるかと思われましたが、大和魂の賢くいらっしゃる人で、筑後・肥前・肥後など九国の人々を動員なさったのはもちろん、府の中にお仕えする者まで駆り出して戦わせなさったので、あちらの者どもがたいそう多く死にましたが、それにしても家柄の高い方でいらっしゃいます。

本当にたいへんなことを平定なさった殿ですよ。朝廷は大臣・大納言にもなさるべきでしたが、宮仕えが絶えてしまっているので、そのままでいらっしゃるのでしょう。この中で主に射返した者たちの名を記して朝廷に奏上なさったので、皆に恩賞を与えられました。種材は壱岐守になされ、その子は太宰監になされました。この種材の一族は、純友を討った者の血筋です。この純友は将門と同じ心で語らって、恐ろしいことを企てた者です。将門は帝を討ち取り申し上げようと言い、純友は関白になろうと、同じく心を合わせて、この世界で自分たちが政治をし、君主となって過ごそうということを約束し合って、一人は東国で軍勢を整え、一人は西国の海に、どこともなく大筏を数知れず集めて、筏の上に土を敷いて木を植え、あちこちに田を作って住みつき、だいたい並の軍勢では動じそうもなくなっていったのを、うまく計略をめぐらして討ち取り申し上げたのはたいへんなことです。

それは本当に人の賢さだけではないでしょう。王の威光がおありになるかぎりは、どうしてそんなことがありえましょう。さて刀伊は壱岐・対馬の人をたいそう多く刀伊国に連れ去ったので、高麗(新羅)の帝が軍を起こして皆取り返しなさいました。そして使いをつけて確かにこの島に送り届けてくださったので、その国の使いに大弐は金三百両を取らせて帰されました。このころのことも、このようにたいそう立派に処置なさったので、入道殿はやはりこの帥殿(隆家)を見捨てられないものとお思い申し上げていらっしゃるのです。そのためでしょうか、世の中でもたいそう見捨てがたい評判でいらっしゃいます。お屋敷の門には、いつ馬や車の三、四台が途絶える時がありましょう。また道もよけきれずに立て込む時もあるのですよ。この殿のお子の男君は、ただ今の蔵人少将良頼の君、また右中弁経輔の君、また式部丞などでいらっしゃるようです。本当に時勢に乗って華やかでいらっしゃった折、この帥殿は花山院と言い争い(賭け事)をなさったのですよ。

たいそう不思議なことでしたよ。『そなたでも、わたしの門前は通れまい』と院がおっしゃったので、隆家は『どうして通れないことがございましょう』と申し上げなさって、その日と決められました。輪の丈夫な車に一番の牛をかけて、烏帽子に直衣をたいそうあざやかにお着けになりました。葡萄染めの織物の指貫を少し車の外に出して、祭の帰りの行列の日に紫野をお走らせになります。若君たちのように、踏み板にたいそう長々と踏みしだいて、裾のくくりは地面に引きずられ、簾をたいそう高く巻き上げて、雑色五、六十人ほどに声のかぎり絶え間なく先払いをさせて、院の方は言うまでもなく、何ともいえない勇猛で屈強な法師たちや大中童子などを合わせて七、八十人ほどに、大きな石や五、六尺ほどの杖を持たせて、北と南の門の辻から西へ、小一条の前、洞院の表裏に隙間なく立ち満ちて、門の内にも控え、若くて力の強い僧ばかりがそういう準備をして控えています。

そんなことばかり好んで思っている上下の者どもが、今日の日にめぐりあった様子は、本当にどんなだったことでしょう。どちらの側も石と杖ばかりで、本物の弓矢はご用意になりません。中納言殿のお車は一時ほど立ち止まられて、勘解由小路より北に、門のあたりまでは寄せられましたが、やはりお渡りになれずにお帰りになります。院の方に大勢集まっていた者どもが、心を一つにして目をこらして見守っていたので、車を引き返されるときは一度にどっと笑った声が、たいそう騒がしいものでした。あんな見ものがございましたでしょうか。『院の威光はたいへんなものだった。通れなくなってしまったよ。つまらないことを言ってしまったものだ。たいへんな恥さらしだった』と言ってお笑いになりました。院がほほえまれて、すばらしいとお思いになったご様子も、よりによって、まるで大事なことのようでした。この帥殿のご兄弟という君たちは大勢いらっしゃるでしょう。

頼親の内蔵頭、周頼の木工頭などと言った人々は、片端から亡くなられて、今はただ兵部大輔周家の君だけがかすかに残っていらっしゃるそうです。小一条院の宮たちの乳母の夫として、院が後見役としてお仕えさせていらっしゃるのは、たいそうありがたいことです。また井手の少将といった君は出家なさったとか。故関白殿(道隆)はお心がまえもたいそうきちんとして気品がおありでしたが、ご子孫は妙なことになり、ご寿命も短くいらっしゃるようです。今の入道一品の宮(脩子)と、この帥殿(隆家)の中納言だけが残っていらっしゃるようです。

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