この大臣は法興院の大臣(兼家)の五男です。御母は従四位上、摂津守・右京大夫の藤原中正朝臣の娘です。その朝臣は従二位中納言山蔭卿の七男です。この道長の大臣こそ、今の入道殿下でいらっしゃいます。一条院・三条院の御叔父、今の帝(後一条)と東宮(後朱雀)の御祖父でいらっしゃいます。この殿は参議にはおなりにならずに、永延二年正月二十九日に権中納言におなりになります。御年二十三。その年に上東門院(彰子)がお生まれになりました。正暦二年九月七日に権大納言におなりになります。正暦三年四月二十七日に従二位になられます。中宮大夫と申しました。御年二十七。宇治殿(頼通)がお生まれになった年です。長徳元年乙未四月二十七日に左近衛大将を兼ねられます。その年の祭の前から世の中がひどく騒がしかったのが、翌年にはいっそうひどくなったのですよ。まず大臣や公卿が大勢亡くなられたのですから、まして四位・五位の人々は、数もわかりませんでした。
まずその年に亡くなられた殿方の数は、閑院の大納言殿(朝光)が三月二十八日、中の関白殿(道隆)は四月六日に出家なさって十日に亡くなられました。それは疫病によってではいらっしゃいませんで、ただ同じ時期に重なったことです。小一条の左大将済時卿は四月二十三日に亡くなられます。六条の左大臣殿重信、粟田の右大臣殿道兼、桃園の源中納言保光卿、この三人は五月八日に一度に亡くなられます。山井の大納言殿は道頼と申し上げた方で、六月十一日ですよ、御年二十五でまたありましたよ。昔の世にも、このように大臣・公卿が七、八人も二、三か月のうちに一掃されるように亡くなられたのはめったにないことでした。それもただこの入道殿のご幸運がきわまっていらっしゃったからでございましょう。あの殿方が順番どおりに長く保たれていたら、とてもこうはいらっしゃらなかったでしょう。まず帥殿(伊周)のお心がけがしっかりしていらっしゃったら、父大臣のご病気の間に天下執行の宣旨が下ったまま、自然とそのまま(関白に)おなりになったでしょう。
それにまた父大臣が亡くなられたので、どうして赤子のような心の方(伊周)が殿の世の政治をなさろうかというわけで、粟田殿に関白が移ったのですよ。「降りを恐れるなら器を用意せよ」と申すことは本当にあることです。しかるべき順番で、それもまたあるべきことだったのに、あきれたことに夢などのようにあっけなく亡くなられてしまったのは、こんなことがあってよいものでしょうか。この今の入道殿は、その折は大納言で中宮大夫と申し上げ、御年もたいそう若く、行く末を待ち受けられるはずのお年ごろでしたが、三十で四月二十七日に大将におなりになります。五月十一日に、太政官の諸事をまず内覧するという、関白同様の宣旨を受けられて、栄えはじめられたのですよ。同じ年の六月十九日に右大臣におなりになって、長徳二年七月二十日にまた左大臣におなりになりました。それ以来、ほかの方へは(政権が)分かれなくなったのですよ。
今もそのようでございます。この殿には北の政所がお二方いらっしゃいます。この宮々の御母上と申し上げるのは、土御門の左大臣雅信の大臣の御娘(倫子)でいらっしゃいます。その雅信の大臣は、亭子の帝(宇多天皇)の御子、一品式部卿の宮敦実親王のお子で、左大臣時平の大臣の御娘の腹にお生まれになったお子です。その雅信の大臣の御娘を、今の入道殿下の北の政所と申し上げるのです。そのお腹に女君四人、男君二人がいらっしゃいます。そのご様子はただ今のことですから、皆さま拝見なさっているでしょうが、言葉を続けて申し上げようというのです。第一の女君は一条院の御代、長保元年十一月一日、御年十二で女御として入内なさいます。翌年の同じ長保二年庚子二月二十五日に十三で后にお立ちになって中宮と申し上げましたが、続いて男皇子をお二人お産み申し上げたのが、今の帝と東宮でいらっしゃるようです。
お二方の御母后として、太皇太后宮と申し上げ、天下第一の母でいらっしゃいます。そのすぐ下の女君は尚侍と申し上げましたが、三条院が東宮でいらっしゃったときに参られて、東宮が位にお即きになったので、長和元年二月十四日に后にお立ちになって中宮と申し上げました。御年十九。さて翌年の長和二年癸丑の年七月六日に女皇子がお生まれになったのが、三、四歳ほどで一品におなりになって、今もいらっしゃいます。このごろはこの御母宮を皇太后宮と申し上げて、枇杷殿にいらっしゃいます。一品の宮(禎子内親王)は三宮に準じて千戸の封戸を得ていらっしゃるので、この宮には后がお二方いらっしゃるようなものです。また次の女君(威子)、この方も尚侍で、今の帝が十一歳で寛仁二年戊午正月三日に元服なさって、その三月七日に入内なさり、同じ年の四月二十八日に女御の宣旨が下されました。
この日は内裏が新造されて帝がお移りになった日です。同じ年の十月十六日に后にお立て申し上げるという宣旨がありました。使いは源民部卿俊賢の君がなさいました。中宮大夫でいらっしゃったので、なさったのでございましょう。ただ今の中宮と申し上げて、内裏にいらっしゃいます。また次の女君(嬉子)、この方も尚侍で、十五でいらっしゃるときに、今の東宮が十三におなりになる年、治安元年二月一日に参られて、東宮の女御としてお仕えしていらっしゃいます。登華殿にいらっしゃいました。殿がご出家なさった後のことなので、今の関白殿(頼通)の御娘ということにして参らせなさいました。今年は十九におなりになります。ご懐妊なさって七、八か月にあたられます。入道殿のご様子を拝見しますと、必ず男の子でいらっしゃるでしょう。この翁は決して言い誤ったりはいたしますまい」と言って扇を高く使ったのはおかしいものでした。
「女君たちのご様子はこのようです。男君お二方と申しますのは、今の関白左大臣頼通の大臣と申し上げて、天下を思いのままに治めていらっしゃいます。御年二十六で内大臣・摂政におなりになったでしょうか。帝が成長なさったので、寛仁三年十二月二十二日に摂政を辞する表を差し上げなさって、同じ日に関白の宣旨が下りて、関白でいらっしゃいます。二十あまりで納言などにおなりになるのをたいへんなことと言ったものですが、今の世のご様子はこのようでいらっしゃるのですよ。この方を宇治殿と申し上げます。幼名は田鶴君です。もうお一方はただ今の内大臣で、左大将を兼ねて、教通の大臣と申し上げます。世の第一の人でいらっしゃるようです。この方は二条殿、幼名はせや君。こうしてみると、女のご幸運として、あるいはこの北の政所(倫子)が栄華をきわめていらっしゃいます。帝や東宮の御母后とおなりになります。
あるいは親が世の第一の人でいらっしゃる場合には、お子がお生まれにならなくても后にお立ちになるようです。女のご幸運は、后こそがきわめていらっしゃることのようです。けれども后というのはたいそう窮屈なご様子でいらっしゃいます。どんなに急なことがあっても、並々のことでなければお動きになれません。警護の陣屋が置かれるので、女房もたやすく思いのままにお仕えすることもできません。このように窮屈です。北の政所は、臣下と申しても、帝・東宮の御祖母として三后に準じる御位で、千戸の封戸を得ていらっしゃいます。年官・年爵をいただかれ、唐車でたいそう気軽にお出かけなどもなさって、かえってお身も気楽で、ご覧になりたいとお思いになることは、世の中の見物や何かの法会などがある折には、お車でも桟敷でも必ずご覧になるようです。帝・東宮・宮々と別々でいらっしゃるのは惜しいことですが、どちらにもお渡りになっては並んでいらっしゃいます。
ただ今三人の后、東宮の女御、関白左大臣の御母で、帝・東宮はなおさらのこと、だいたい世の親で、お二方(道長と倫子)とも、しかるべき仏の化身でいらっしゃるのでしょう。ご夫婦の仲は四十年ほどにおなりでしょうか。しみじみと尊い方として大切にお扱い申し上げなさる、と言うのでは言い足りないほどです。世の中では、昔も今も国母や大臣は皆藤原氏でいらっしゃるのに、この北の政所は源氏でご幸運をきわめていらっしゃいます。一昨年の御賀(倫子の六十の賀)のありさまなどは、皆さま見聞きなさったことですが、やはりくり返しすばらしいことでございました。また高松殿の上(明子)と申し上げる方も源氏でいらっしゃいます。延喜の帝の御子の高明親王は、左大臣・左大将にまでおなりになったのに、思いもかけない事件のために大臣を取り上げられて太宰権帥になられ、流されなさいました。たいそうつらいことでしたよ。その方の御娘でいらっしゃいます。
あの殿が筑紫にいらっしゃった年、この姫君はまだたいそう幼くていらっしゃいましたが、御叔父の十五の宮(盛明親王)と申し上げた方も同じく延喜の帝の御子でいらっしゃいます。女のお子がいらっしゃらなかったので、この君を引き取ってお育てになり大切にしていらっしゃったのですが、西宮殿も十五の宮も亡くなられた後、故女院(詮子)が后でいらっしゃった折に、この姫君をお迎え取りになって、東三条殿の東の対に御帳台を立て、壁代を引き、ご自分のお部屋の調度に少しも劣らないようにしてお住まわせ申し上げ、女房・侍・家司・下人まで別に割り当てなさって、姫宮などがいらっしゃるかのように限りなく大切にお世話申し上げなさったので、御兄弟の殿方が我も我もと懸想申し上げなさいましたが、女院はきびしくお止めになって、今の入道殿だけをお許しになったので、お通いになるうちに、女君お二人、男君四人がいらっしゃるのですよ。
女君と申しますのは、今の小一条院の女御(寛子)、もうお一方(尊子)は、故中務卿の宮具平親王と申し上げる、村上天皇の七の皇子でいらっしゃった方の男君、三位中将師房の君と申し上げる方が、今の関白殿の北の方(隆姫)のご兄弟であるために、関白殿が養子にしておられたのを、婿にお迎えになりました。浅はかで納得のいかないことだと世の人は申しました。お屋敷の中の人もそう思いましたが、入道殿にはお考えがおありだったのでしょうよ。男君は大納言で春宮大夫頼宗と申し上げます。幼名は巌君(いわぎみ)。もうお一方は同じく大納言で中宮権大夫能信と申し上げます。もうお一方は中納言長家、幼名は小若君(こわかぎみ)。もうお一方は馬頭で顕信といっていらっしゃいました。幼名は苔君(こけぎみ)です。長和元年壬子正月十九日に出家なさって、この十数年、仏のようにしてお勤めをなさっているのは、たいそう思いがけず、しみじみとしたことです。ご自身の菩提は申すまでもありません。殿のおためにも、また法師であるお子がいらっしゃらないのが残念で欠けたことのように思われていたので、入道殿は『それならすぐに一足飛びに僧正にしてさしあげよう』とおっしゃったと承りましたが、どうでございましょう。
立派な法服を宮々からも差し上げなさり、殿からは麻の御衣を差し上げなさるのを、顕信はあってはならないことだと申されたそうで、たいそうつらく思われたそうです。お出になった日は、緋の衵(あこめ)がたくさんございましたのを、あれこれ何枚も重ねて着るのはうるさい、『綿を一つに入れて、一枚だけ着たいものだ。そうしてくれ』とおっしゃったので、『あれこれ縫い直しますのも面倒ですから、綿を厚くして差し上げましょう』と申し上げたところ、『それでは時間がかかるだろう。ただ早くと思っているのだ』とおっしゃったので、お考えがおありなのだろうと思って、たくさんの綿を一つに入れて差し上げたのをお召しになって、その夜お出になりました。ですから御乳母は、『あのようにおっしゃったのに、どうして差し上げてしまったのだろう。いつもと違って怪しいと思わなかった心の行き届かなさよ』と泣きまどいなさったのは、まことにもっともで、しみじみとしたことです。
今年も(その乳母は)それに差しさわるように、このように(出家したと)聞きつけなさって、すぐに気を失って死んだ人のようになっていらっしゃいましたが、顕信がこれをお聞きになったらお気の毒で、お心が乱れなさるだろうと思っても、今さらしかたがありません。『これこそめでたいことです。仏におなりになって、あなたのためにも後の世がよくなられることこそ、最後のことです』と人々が言ったところ、『仏におなりになるのも嬉しくありませんし、わたしが後世にお助けいただくのも考えられません。ただ今の悲しさよりほかのことはありません。殿も北の方も(お子は)大勢いらっしゃるのでよいでしょう。ただわたし一人のことなのです』と言ってころげ回って泣かれたのは、本当にもっともなことですな。道心のない人が後の世のことまでわかるものでしょうか。高松殿(明子)の夢に、顕信の左の御髪を後ろから半分ほど剃り落とされるとご覧になったのを、こうなった後で、これが見えたのだったと思い当たられて、『夢違えの祈りなどもすべきだったのに』とおっしゃいました。
革堂(行願寺)で御髪をおろされて、すぐその夜に比叡山へお上りになりましたが、『賀茂川を渡ったときに、ひどく冷たく感じられたのが、少しつらかった。今はこのようにして過ごすべき身なのだと思いながら』とおっしゃったそうです。今の衛門督(実成)は早くから『この君は出家の相がおありだ』とおっしゃって、娘を(嫁がせようと)お便りがあったのに、そのような相のある人にはどうしてというわけで、のちにこの中宮大夫殿(能信)を婿にお迎えになったのです。正月に内裏から退出なさって、この衛門督が『馬頭が物陰から出てきたのを見ると、ひどく出家の相が近くなって見えた。いくつになるのだ』とおっしゃったので、頭中将が『十九におなりでしょう』と申し上げなさると、『それでは今年なさるだろう』と言ったところ、そうなったと聞いて『やはりそうだった』とおっしゃったそうです。
人相見ではなくても、すぐれた人は物を見通されるのです。入道殿は、『しかたがない。ひどく嘆いて、それを聞いて心が乱れるのも、あの人のために気の毒だ。法師の子がいなかったのだから、どうしようもない。幼いうちに法師にしようと思ったが、嫌がったのでそうしなかったのだ』と言って、ただ普通の作法の法師と同じように扱い申し上げなさいました。受戒の時にはすぐに殿が比叡山にお上りになります。人々が我も我もとお供に参られて、たいそう盛大でした。威儀僧には何ともいえないほどの者たちがお立ちになりました。前駆には僧綱たちや身分の高い僧が控えています。山の所司や殿の随身たちが大騒ぎをして、戒壇にお上りになるところは、入道殿は見ていらっしゃることがおできになりませんでした。顕信ご自身は、不本意できまりが悪いとお思いになっていました。座主の手輿に乗って、傘をさしかけさせて上られたところは、ああ天台座主が戒和尚をつとめる第一の受戒だと見えました。
世継の隣に住んでおります者がその場に居合わせて拝見したのを話してくれたのです。春宮大夫殿(頼宗)や中宮権大夫殿(能信)などが大納言におなりになった折、それでもお耳にとまってお聞きになるだろうと思われたので、その大饗の折のことどもや、大納言の座が加えられたときのことなどをお話し申し上げましたが、顕信は少しもご様子が変わらず念誦をしながら、『こうしたことはほんのしばらくのことです』とおっしゃったのが、立派で優雅に思われた、と道成の君がおっしゃったそうです。この殿のお子たちは男女合わせて十二人、数のとおりにいらっしゃいます。男も女も官位はお心のままにおなりになったでしょうが、お心ばえやお人柄までも少しも欠けたところがなく、非難されるようなことはいらっしゃらず、それぞれに立派ですばらしくいらっしゃるのも、ほかでもなく、入道殿のご幸運が言いようもないほどでいらっしゃるからでしょう。
以前の殿方にもお子たちはいらっしゃいましたが、皆こうまで思いどおりでいらっしゃったでしょうか。自然と男も女もよい方、悪い方が混じっていらっしゃったようです。この北の政所はお二方とも源氏でいらっしゃるので、末の世には源氏が栄えなさるだろうと判じているようです。そういうわけで、このお二方のご様子はこのようです。ただし殿ご自身は三十から関白(内覧)をなさって、一条院・三条院の御代に世を治め、思いのままでいらっしゃいましたが、また今の帝が九つで位にお即きになったので、御年五十一で摂政をなさった年、ご自身は太政大臣におなりになり、摂政を今の関白大臣にお譲りになって、御年五十四におなりになります。寛仁三年己未三月十八日の夜中ごろから胸を病まれて、それほどひどくはいらっしゃいませんでしたが、どうお思いになったのでしょう、にわかに二十一日の未の時ごろに起きて座られて、冠を取り寄せ、掻練の下襲に袍をつけて、手水をお使いになるので、何事かと関白殿をはじめ殿方もお思いになっていると、寝殿の西の渡殿にお出になって、南に向かって拝礼なさいます。
春日の明神に暇乞いを申し上げなさったのでした。慶命僧都と長義律師によって御髪をおろされます。関白をはじめとして、君たち殿方などはたいそうあきれたことにお思いになりましたが、思い立ってにわかになさったことなので、だれもかれもあきれてお止め申し上げることもできず、あきれたなどという言葉では足りません。院源法印が戒の師をつとめなさいます。信誉僧都の袈裟と衣を初めてお召しになりました。にわかのことでご用意もなさらなかったのでしょうか、御名を行観とおつけになりました。のちに下の文字を変えて行覚となりました。こうして後に、帝・東宮・宮たちにもこうこうと申し上げなさいました。聞きつけなさった宮たちのお心は、あきれて驚き騒がれたといっても言い足りません。申の時ごろに小一条院がお越しになって、門の外でお車の牛をはずし、車を引き入れさせて中門の外でお下りになっていらっしゃいました。
車を寄せてお下りになり、かしこまって(お見舞いを)申し上げなさるさまは、まことにおそれ多くすばらしいご様子でしたよ。宮たちも夕方にお越しになりました。中宮や皇后宮などは一つ車でお越しになりました。行啓のありさまもにわかのことで、普通の作法どおりでもございませんでした。同じ年の九月二十七日に奈良(東大寺)で受戒がございました。このようなご様子につけても、すばらしいことが多くございましたが、皆さまご存じのことですから、詳しくは申しますまい。ご出家なさったけれども、なおまた同じ年の五月八日に准三宮の位におなりになって、年官・年爵を得られます。三人の后、関白左大臣・内大臣、大勢の納言の御父、帝・東宮の御祖父でいらっしゃいます。世を治め保たれること、こうして三十一年ほどになられたでしょうか。今年は六十でいらっしゃるので、尚侍の殿(嬉子)のご出産の後に御賀があるはずだと人は申しているようです。
どんなにまたさまざまにお集まりになって、すばらしいことでございましょう。だいたい、また世にないことです。大臣の御娘が三人、后として並び立ちなさることは、驚くほどめったにないことです。唐土には昔、三千人の后がいらっしゃいましたが、それは家柄も尋ねずにただ美しいと聞く者を隣の国まで選び出したもので、その中で楊貴妃のような者はあまりに寵愛されすぎて悲しいことがありました。王昭君は胡の王に与えられて胡の国の人となり、上陽人は楊貴妃に嫉妬されて帝にお目にかかることもなく、春が行き秋が過ぎるのも知らずに、十六で宮中に参って六十まで過ごしました。こういうことでは三千人もいるかいがありません。わが国では后は七人いらっしゃってもよいはずですが、代々四人をお立てになっています。この入道殿下のご一門だけから、太皇太后宮・皇太后宮・中宮のお三方がお出になったのです。
まことにまれなご幸運です。皇后宮(娍子)お一方だけは血筋が別でいらっしゃいますが、その方も貞信公(忠平)のご子孫でいらっしゃるのですから、よその人と思い申し上げるべきでしょうか。そういうわけで、ただもう世の中はこの殿のご威光でないものはありません。この春に皇后宮が亡くなられたので、ますますただ三人の后だけが世にいらっしゃるようです。この殿が何かにつけてお作りになった詩や和歌などは、白居易や赤人・人麻呂・躬恒・貫之といった人でも、どうして思いつけただろうかと思われるほどです。春日への行幸は、先の一条院の御代から始まったのですよ。それにまた今の帝は幼くいらっしゃいますが、必ずあるべきこととして始まった先例になったので、大宮(彰子)が御輿にお付き添いになっていらっしゃいます。すばらしいなどと言っても並一通りではなく、時の帝の御祖父として付き添ってお仕えになります。
殿のご様子やお顔立ちなどが少しでも世の常でいらっしゃったなら物足りなかったでしょうか、大勢集まった田舎の民や百姓は、このときこそはっきりと拝見したことでしょう。ただ転輪聖王などはこのようであろうかと光り輝くようでいらっしゃるので、仏を拝見したかのように額に手を当てて拝み惑うさまは当然のことです。大宮は赤い扇で顔を隠していらっしゃいましたが、肩のあたりなどは少しお見えになりました。これほどの身分におなりになった方は、少しの透き影もふさいで、どうにかしてお隠し申し上げるものですが、ものには限りがあるので、今日の晴れがましいご様子は少しくらい人が拝見してもかまわないとお思いになったのでしょうか、殿も宮も言いようもなくご満足なさったことが推し量られますよ。殿が大宮に、
「そのかみやいのりおきけむ春日野のおなじ道にもたづねゆくかな(その昔、祖先がこうなるようにと祈っておいたのだろうか。春日野の同じ道を〈先帝の行幸と同じように〉訪ねて行くことだ)」。
ご返歌、
「くもりなき世のひかりにや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ(曇りのない御代の光によって、春日野の同じ道を訪ねて行くのでしょう)」。
このようにお詠み交わしになったのが、まことにもっともだと思われてすばらしゅうございました。中でも大宮がお詠みになった歌、
「三かさ山さしてぞきつるいそのかみふるきみゆきのあとを尋ねて(三笠山を目指してやって来ました。石上の布留ではないが、古い行幸の跡を尋ねて)」。
これらこそはね、翁などの心が及ばないのでしょうか、昔にもこれほどの秀歌はございますまい。その日にとっては、春日明神がお詠みになったように思われます。今日このようなことが晴れがましくあるはずだったので、先の一条院の御代にも大入道殿(兼家)が行幸を申し行いなさったのだろうかと思われますな。だいたいご幸運のおありになる人が和歌の道に劣っていらっしゃったら、何事も映えなかったでございましょう。この殿は折にふれて必ずこうした歌をお詠みになって、行事を引き立てなさるのです。ある年の北の政所の御賀にお詠みになった歌は、
「あかざりしちぎりは絶えて今更にこゝろけがしに千代といふらむ(飽きることなく続いてきた契りは〈出家して〉絶えてしまったのに、今さら心を汚すように千代までもなどと言うのだろうか)」。
またこの一品の宮(禎子内親王)がお生まれになった産養の日、大宮が主催なさった夜の御歌はお聞きになりましたか。それこそたいそう面白いことと、人が思いつくはずもない和歌の趣向ですよ。
「おと宮のうぶやしなひをあねみやのやしなふ見るぞうれしかりける(妹宮のお産みになった姫宮の産養を、姉宮が主催するのを見るのは嬉しいことだ)」