三十六 太政大臣道長(下)

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

――とか承りました」と言って気持ちよさそうに笑っています。「四条の大納言(公任)がこのように何事もすぐれてすばらしくいらっしゃるのを、大入道殿が『どうしてああなのだろう。うらやましいことだ。わが子どもたちが、あの人の影さえ踏めそうもないのは残念だ』と申されたので、中の関白殿や粟田殿などは、本当にそうお思いなのだろうと恥ずかしそうなご様子で何もおっしゃらないのに、この入道殿はたいそうお若い身で、『影は踏まずに、顔を踏んでやりましょう』とおっしゃったそうです。本当にそうおなりになったようです。(公任は)内大臣殿(教通)さえ近くで見申し上げることもできないではありませんか。しかるべき人は早くからお心や気性が強く、ご加護も強いのだろうと思われますが、花山院の御代、五月下旬の闇夜に、五月雨も過ぎたころ、たいそう恐ろしげにかき乱れて雨の降る夜、帝は退屈にお思いになったのでしょうか、殿上の間にお出ましになって遊んでいらっしゃったときに、人々が話をなさって、昔の恐ろしかったことなどを申し上げなさると、『今夜はたいそう気味の悪い夜のようだ。

こんなに人が多い所でさえ気味が悪い。まして人気のない所などはどうだろう。そういう所に一人で行けるか』とおっしゃったところ、皆『とても行けません』とばかり申されたのに、入道殿は『どこへなりとも参りましょう』と申されたので、そういうことがお好きな帝で、『たいそう面白いことだ。それなら行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け』とおっしゃったので、ほかの君たちは、とんでもないことを申し上げたものだと思います。また仰せを受けた殿方はご様子が変わって、困ったことになったとお思いになっていましたが、入道殿は少しもそんなご様子もなくて、『自分の従者は連れて行きますまい。この陣の吉上でも滝口でも一人に、昭慶門まで送れとご命令をください。そこから内へは一人で入りましょう』と申し上げなさると、帝が『それでは証拠がないではないか』とおっしゃるので、『なるほど』と言って、帝の御手箱に置いてあった小刀を腰に差してお立ちになりました。

もうお二方もしぶしぶそれぞれお出かけになりました。子の四つ(午前零時半ごろ)と時を奏上して、このようにおっしゃって相談しているうちに、丑の時にもなったでしょう。『道隆は右衛門の陣から出よ。道長は承明門から出よ』と、それまで分けてお命じになったので、そのようにお出かけになったところ、中の関白殿は陣まではこらえていらっしゃいましたが、宴の松原のあたりで何ものともわからない声々が聞こえるので、どうしようもなくてお帰りになります。粟田殿は露台の外までがたがた震えながらいらっしゃいましたが、仁寿殿の東面の軒下のあたりに、軒と同じ高さの人がいるようにお見えになったので、正気もなくなって、『身が無事でこそ仰せも承れましょう』と言って、それぞれ帰って参られたので、帝は扇を叩いてお笑いになりましたが、入道殿はたいそう長くお見えにならないので、どうしたのかとお思いになっているところに、たいそうさりげなく、何事もなかったような様子で参られました。

『どうだった、どうだった』とお尋ねになると、たいそう落ち着いて、小刀で削り取ったものを添えて差し上げなさるので、『これは何だ』とおっしゃると、『手ぶらで帰ってまいりましたら証拠がございませんので、高御座の南面の柱のもとを削り取ってまいったのです』と平然と申し上げなさったので、帝はたいそうあきれたことにお思いになります。ほかの殿たちのお顔色は今になってもまだ直らないのに、この殿がこうして帰って参られたのを、帝をはじめとして感心して大騒ぎなさいましたが、うらやましいのか、またどういうわけか、お二方は何も言わずに控えていらっしゃいました。帝はなお疑わしくお思いになったので、翌朝、蔵人に『削りくずを持って行って合わせてみよ』とお命じになったので、持って行って押し当ててみると、少しも違いませんでした。その削り跡はたいそうはっきりと残っておりますようです。後の世にも、見る人はやはり驚くべきことだと申しましたよ。

故女院(詮子)の御修法の折、飯室の権僧正(尋禅)がいらっしゃいました伴僧に人相見がおりましたのを、女房たちが呼んで人相を見させたついでに、『内大臣殿(伊周)はどうでいらっしゃいますか』と尋ねると、『たいそう立派でいらっしゃいます。(けれども)中宮大夫殿(道長)こそすばらしくいらっしゃいます』と言います。また粟田殿のことをお尋ねすると、『それもたいそう立派でいらっしゃいます。大臣の相がおありです。またああ、中宮大夫殿こそすばらしくいらっしゃいます』と言います。また権大納言殿のことをお尋ねすると、『それもたいそう高貴でいらっしゃいます。雷の相がおありです』と申したので、『雷とはどういうことか』と尋ねると、『ひときわ高く鳴りますが、後が続かないのです。ですからご子孫がどうなられるかと見えます。中宮大夫殿こそ限りなく際限もなくいらっしゃいます』と、ほかの人をお尋ねするたびに、この入道殿を必ず引き合いに出してほめ申し上げます。

『どうしてそうなので、毎回そうおっしゃるのか』と言うと、『第一の相として「虎子如渡深山峰」(虎の子が深い山の峰を渡るがごとし)と申しますのに、少しも違っていらっしゃらないので、このように申すのです。このたとえは、虎の子が険しい山の峰を渡るようだということです。お顔立ちもよくて、いわば毘沙門天のお姿を拝見するようでいらっしゃいます。ご人相がこのようですから、だれよりもすぐれていらっしゃいます』と申したそうです。たいそうな名人だったのですね。言い当て違えたことがおありでしょうか。帥の大臣(伊周)は大臣まですらすらとおなりになったので、初めはよいと言ったのでしょう。雷は落ちてもまた上がるものですから、星が落ちて石となるのにたとえるべきでしょうか。それこそ二度と上がることはありません。(入道殿の)折々につけてのお姿などは、本当に長い思い出だと人は申すようです。

中でも三条院の御代の賀茂の行幸の日、雪がことのほかひどく降ったので、単衣の袖を引き出して、扇を高く持っていらっしゃったところに、たいそう白く降りかかったので、『ああ、ひどい』と言ってお払いになったご様子は、たいそうすばらしくいらっしゃったことですよ。上の御衣は黒いのに、単衣は紅の華やかな取り合わせに、雪の色も引き立てられて、何ともいえずすばらしくいらっしゃいました。名高い何とかいうお馬は、たいへんな悪癖のある馬でした。ああ、それをお乗りこなしになったことよ。三条院もその日のことを思い出していらっしゃるそうです。ご病気の中でも、『賀茂の行幸の日の雪こそ忘れがたい』とおっしゃったのはしみじみとしております。このように世の中の光でいらっしゃる殿が、一年ほど心穏やかでなくお思いになっていたことよ(伊周との対立)、天道はどうご覧になったことでしょう。

そうはいっても、少しでも卑屈なお心をお通しになったでしょうか。公の行事や作法にだけはしかるべき程度にふるまい、時刻をたがえることなくお勤めになって、内々ではまったく遠慮なさいませんでしたよ。帥殿が南院で人々を集めて弓の競射をなさったところ、この殿がおいでになったので、思いがけず妙なことだと中の関白殿は驚かれて、たいそうもてなし申し上げなさって、官位は下でいらっしゃいましたが先に立て申し上げて、まず射させ申し上げなさったところ、帥殿の当たり矢の数が二本劣ってしまわれました。中の関白殿も、また御前に控える人々も『もう二度延長なさいませ』と申して延長なさったので、入道殿は心穏やかでなくお思いになって、『それなら延長なさい』とおっしゃって、また射られるときにおっしゃったことには、『道長の家から帝や后がお立ちになるはずならば、この矢よ当たれ』とおっしゃると、同じ当たるにしても、真ん中に当たったではありませんか。

次に帥殿が射られると、たいそう気後れなさって手も震えたのでしょうか、的のあたりにさえ近寄らず、とんでもない方向を射られたので、関白殿は顔色が青くなりました。また入道殿が射られるときに、『摂政・関白になるはずならば、この矢よ当たれ』とおっしゃると、初めと同じように的が割れるほどに射当てなさいました。もてなしもてはやし申し上げていた興もさめて、ひどく気まずくなりました。父大臣は帥殿に『どうして射るのか。射るな、射るな』とお止めになって、座はしらけてしまいました。入道殿は矢を返して、すぐにお帰りになりました。その折は左京大夫と申し上げました。弓をたいそう上手にお射になったのです。またたいそうお好きでもありました。不思議に見えるはずのことではありませんが、その人のご様子やおっしゃる言葉の勢いに、一方では帥殿は気後れなさったのでしょう。また故女院の石山詣でに、この殿はお馬で、帥殿は車で参られましたが、差しさわりがあって粟田口から帥殿がお帰りになるというので、院のお車のもとに参ってご挨拶を申し上げなさるときに、お車も止めてあったので轅を押さえて立っていらっしゃると、入道殿はお馬を引き返して、帥殿のうなじのあたりにごく近く寄られて、『早くお供をしなさい。

日が暮れてしまうから』とおっしゃったので、帥殿は妙にお思いになって振り返られましたが、入道殿は驚いた様子もなく、すぐにはおどきにならず、『日が暮れた。早く早く』とおせかしになるので、帥殿はたいそう心穏やかでなくお思いになりましたが、どうしようもなく、そっと立ち退かれました。父大臣に申し上げなさると、『大臣を軽んじる人によいことはない』とおっしゃったそうです。三月上巳の日の御祓えに、そのまま遊覧なさるというので、帥殿が河原にしかるべき人々を大勢連れてお出になりました。平張(ひらばり)をたくさん張り渡したお座所の近くに、入道殿もお出になりました。入道殿のお車を近く寄せると、『不都合なことだ。そうするな。車をどけよ』とおっしゃったのを、何とか丸という車副いが、『何をおっしゃる殿でしょう。こんなことを申されるから、この殿は不運でいらっしゃるのですよ。

ああいやだ、いやだ』と言って、ひどく車の牛を打って、もう少し平張のそば近くまで寄せ申し上げました。『ひどくもこの男に言われてしまったものだ』と帥殿はおっしゃいました。さてその車副いを、入道殿はたいそうかわいがられてお目をかけられたので、こうしたことでこの殿たちのお仲はたいそう悪くなりました。女院は入道殿を特別にたいそう大切に思い申し上げなさったので、帥殿はよそよそしくお扱いになっていました。帝(一条)が皇后宮(定子)をこまやかにご寵愛になったので、帥殿は明けても暮れても御前に伺候なさって、入道殿のことは言うまでもなく、女院のことまで何かにつけて悪く申し上げなさるのを、女院は自然とご気分を悪くなさったのでしょう、たいそう不本意なことにお思いになったのはもっともです。故入道殿(道長)が世を治められることを、帝はたいそうしぶっていらっしゃいました。

皇后宮が父大臣もいらっしゃらなくなり、世の中が様変わりなさることをたいそうお気の毒にお思いになって、粟田殿にもすぐには宣旨をお下しになったでしょうか。けれども女院は道理のとおりのこともお考えになり、また帥殿をよくなく思い申し上げていらっしゃったので、帝が入道殿のことをたいそうしぶっていらっしゃるのに、『どうしてそのようにお思いになり、おっしゃるのですか。大臣を越えられたことさえたいそう気の毒でございましたが、父大臣(道隆)が強引にいたしたことなので、お断りになれなかったのでございます。粟田の大臣にはおさせになって、この人(道長)にだけはさせないのは、気の毒であるより、あなたのためにたいそう不都合だと世の人も言い立てるでしょう』などと熱心に奏上なさったので、帝はうるさくお思いになったのでしょうか、後には女院のもとにお渡りにならなくなりました。それで女院は清涼殿の上の御局にお上りになって、こちらへとは申し上げずに、帝の夜の御殿にお入りになって泣く泣く申し上げなさいます。

その日、入道殿は上の御局に控えていらっしゃいます。女院がたいそう長いこと出ていらっしゃらないので、胸がつぶれる思いでいらっしゃったところ、しばらくして戸を押し開けて出ていらっしゃったそのお顔は、赤らんで涙に濡れて光っていらっしゃいながら、お口元は気持ちよさそうにほほえまれて、『ああ、宣旨が下りましたよ』と申されたそうです。ちょっとしたことでさえ皆この世だけのことではない(前世からの因縁だ)と申しますから、ましてこれほどのご運は、人がどう思っておこうとそれによるはずもありませんが、どうして入道殿は女院をおろそかに思い申し上げなさったりするでしょう。中でも、道理以上にご恩返しをしてお仕えになりました。ご遺骨までも首におかけになったのですよ。中の関白殿・粟田殿が続いて亡くなられて、入道殿に世が移ったときは、本当に胸がつぶれて、あっけにとられたように思われたことでございます。ずっと昔の世のことは存じません。

翁が物心ついてからは、こんなことはございませんでしたよ。今の世になってからは、第一の人(摂関)は貞信公・小野宮殿をはじめとして、十年といらっしゃる方も近ごろはございませんので、この入道殿もどうだろうかと思い申し上げておりましたところ、いっそうこのような運に押されて、御兄たちはあっけなく亡びなさったのでいらっしゃるようです。それもまた、しかるべきわけのあることなのに、世の中はただこうしたものなのだろうと人々がお思いになるといけませんので、事の次第をまた少し申し上げましょう。世の帝は、神代の七代はさておき、神武天皇から始め申し上げて三十七代目にあたられる孝徳天皇の御代から、さまざまな大臣が定まりなさったそうです。ただしこの御代に、大中臣の鎌子の連と申し上げる方が初めて内大臣におなりになります。その大臣は常陸の国でお生まれになりましたが、三十九代目にあたられる天智天皇と申し上げる帝の御代に、この鎌足の大臣の御姓が藤原と改まりなさったのです。

ですから世の中の藤原氏の始まりは、内大臣鎌足の大臣をお祖とし申し上げるのです。その末々から多くの帝・后・大臣・公卿がさまざまにお出になりました。ただしこの鎌足の大臣を、天智天皇はたいそう大切に重く用いられて、ご自分の女御の一人をこの大臣にお譲りになりました。その女御はすでに身ごもっていらっしゃったので、帝がお考えになったのは、この女御の身ごもった子が男なら臣の子としよう、女ならわが子としようとお思いになって、あの大臣に『男なら大臣の子にせよ。女ならわが子にしよう』とお約束なさったところ、このお子が男としてお生まれになったので、内大臣のお子となさいました。この大臣はもともと男の子を一人、女の子を一人お持ちでした。この女御のお腹に続いて女の子が二人、男の子が二人お生まれになりました。その姫君たちは、天智天皇の皇子で大友皇子と申し上げた方が太政大臣の位にあって、次にはそのまま同じ年のうちに帝となられた天武天皇と申し上げる帝の御代の女御として、お二方とも続いていらっしゃいました。

大臣のもとの長男は、大中臣の意美麻呂として参議までなられました。天智天皇の御子として身ごもられていらっしゃった方は左大臣までなられて、藤原不比等の大臣としていらっしゃいました。亡くなられた後、贈太政大臣になられました。鎌足の大臣の三男は宇合と申し上げました。四男は麻呂と申し上げました。この男君たちは皆参議くらいまでおなりになりました。こうして鎌足の大臣は天智天皇の御代に藤原の姓を賜って、その年に亡くなられました。内大臣の位に二十三年いらっしゃいました。太政大臣はきわめられませんでしたが、藤原氏の始まりという尊さによって、亡くなられた後の諡を淡海公と申し上げました」。この繁樹が言うには、「大織冠(鎌足)をどうして淡海公と申し上げなさるのです。大織冠は大臣の位に二十五年、御年五十六で亡くなられました。

あなたのおっしゃることは天の川を流すように(よどみなく)ございますが、時々こういう間違いが混じっております。けれども、ほかにだれがこのように語れましょうか。仏ご在世のころの浄名居士(維摩)のように思われますよ」と言うと、世継が言うには、「昔、唐土で孔子と申す物知りがおっしゃったことがございます。『智者の千の思慮にも必ず一つの誤りあり』とありますから、世継は年が百歳をはるかに越えて、二百を数えないくらいで、ここまで問わず語りを申しておりますので、昔の人々にも劣らないのではないかと思われます」と言うと、繁樹は「なるほど、本当に申し上げようもございません」と言って、一方では涙を拭いなどして感心する様子は格別で、本当に言葉ではとても言い尽くせないほどに思われましたよ。「お子の右大臣不比等の大臣は、実は天智天皇の御子です。けれども鎌足の大臣の次男におなりになりました。

この不比等の大臣は、お名前の文字をはじめとして、並々でなくいらっしゃいました。並ぶ者がないということでつけられたお名前に、この文字はあったのでございます。この不比等の大臣の男君たちは二人いらっしゃいました。長男は武智麻呂と申し上げて左大臣までなられました。次男は房前と申し上げて参議までなられました。この不比等の大臣の御娘はお二人いらっしゃいました。お一方は聖武天皇の御母后で、光明皇后と申し上げました。もうお一方の御娘は聖武天皇の女御で、女のお子をお産みになりました。その女皇子を聖武天皇は女帝にお据えになりました。この女帝を高野の女帝と申し上げて、二度位にお即きになりました。弓削の法皇(道鏡)はこの時ですよ。さて不比等の大臣は男子四人を四家と名づけて、皆家を分けられました。その長男の左大臣武智麻呂を南家と名づけ、次男の房前を北家と名づけ、ご兄弟の宇合の式部卿を式家と名づけ、その弟の大夫麻呂を京家と名づけられて、これを藤原氏の四家と名づけられたのでした。

この四つの家から数多くのさまざまな国王・大臣・公卿が多くお出になって栄えていらっしゃいます。そうではありますが、北家の子孫が今も枝を広げていらっしゃいます。そのお血筋をまた一筋に申し上げましょう。絶えてしまった方は申しますまい。人の数にも入らないような者どもは、もしかするとそのご子孫にもございましょう。あの鎌足の大臣からのお続きは、今の関白殿まで十三代になられるでしょうか。その次第をお聞きください。藤原氏と申せば、ただ藤原をそう言うのだと人はお思いでしょうが、そうはいっても、元から末まで知ることはたいそう難しいことです。

原文で読む →
← 前の章三十五 太政大臣道長(上)