第101話軍記物語抄訳・要確認
巻四「腰越の申状の事」
元暦二年(一一八五年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、捕虜とした平宗盛父子を連れて、兄の頼朝が待つ鎌倉へと下っていった。
ところが、頼朝は、義経が鎌倉に入ることを許さなかった。義経が、頼朝の許しを得ずに朝廷から官位を受けたこと、梶原景時の讒言によって、義経が独断専行を重ねていると思われたことなどが、その理由であった。
義経は、鎌倉の手前の腰越の宿で、足止めされた。何日待っても、兄からの許しは出ない。義経は、頼朝の側近である大江広元に宛てて、心の内を書き綴った書状を送った。
「私、義経は、兄上の代官として、勅命を受けて朝敵を滅ぼし、父の恥をすすぎました。恩賞をいただけるものと思っていたところ、思いがけず讒言によって、莫大な勲功も無視され、罪もないのに咎めを受けて、ただ涙に暮れております。
思えば、私は、生まれるとすぐに父を亡くし、母の懐に抱かれて大和の国の宇陀に逃れて以来、一日片時も安心して過ごしたことはありません。都の周りに身を隠し、辺土遠国を住みかとして、土民百姓に仕えてきました。
こうして、平家を討つために、命を惜しまず、あるときは険しい岩山で駿馬に鞭打ち、あるときは大海の風波をしのいで、ひたすら忠義を尽くしてきました。どうか、この心中をお察しいただき、兄上のお許しを得られますよう、お取り計らいください」
しかし、この「腰越状」も頼朝の心を動かすことはできなかった。義経は鎌倉に入ることを許されず、宗盛父子を連れて京へ戻っていった。兄弟の決定的な対立は、ここから始まった。
腰越の満福寺には、弁慶が書いたとされる腰越状の下書きが伝わっている。