第104話軍記物語抄訳・要確認
巻八「衣川合戦の事」「判官御自害の事」
苦難の末に奥州平泉にたどり着いた義経を、藤原秀衡は温かく迎え入れた。義経は、衣川のほとりの高館に住まいを与えられた。しかし、秀衡は、まもなく病で世を去った。秀衡は、息子の泰衡たちに、「義経殿を大将として、頼朝に備えよ」と遺言した。
しかし、頼朝からの圧力に屈した泰衡は、父の遺言に背き、文治五年(一一八九年)閏四月、数百騎の兵で高館を襲った。義経の手勢は、わずか十数人であった。
弁慶は、「今こそ最期の奉公」と、黒糸縅の鎧を着て、大長刀を持って、館の前に立ちはだかった。群がる敵を次々に斬り伏せ、矢を受けても一歩も退かない。鎧に立った矢は数知れず、蓑を逆さに着たようであった。やがて弁慶は、長刀を杖にして、仁王立ちのまま、動かなくなった。敵は恐れて近づくことができなかったが、よく見ると、弁慶は立ったまま息絶えていた。これが「弁慶の立ち往生」である。
その間に、義経は、持仏堂に入って、法華経を読誦していた。経を読み終えると、義経は、妻と幼い子を刺し、自らも刀で命を絶った。三十一歳であった。館には火が放たれた。
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五百年後の元禄二年(一六八九年)、松尾芭蕉は、この高館に登った。眼下には、衣川と北上川が流れ、夏草が一面に生い茂っていた。芭蕉は、杜甫の「国破れて山河在り、城春にして草木深し」を思い起こし、笠を敷いて、時の過ぎるのも忘れて涙を落とした。
「夏草や兵どもが夢の跡」
人々は、義経の死を惜しみ、義経は実は生き延びて、蝦夷地へ、さらには大陸へ渡ったという伝説を生んだ。「判官贔屓」という言葉は、悲劇の英雄への同情から生まれたものである。