第144話近世小説抄訳

雨月物語

巻之二「夢応の鯉魚」

舞台 三井寺(滋賀県)
成立 1776年 作者 上田秋成

現代語訳

昔、延長のころ、近江の国の三井寺に、興義という僧がいた。絵が上手で、世に名高かった。仏像や山水花鳥を描くよりも、鯉の絵を描くことを好み、寺の仕事の暇な日には、琵琶湖に小舟を浮かべて、漁師に金を払って、網にかかった鯉を湖に放してやり、その泳ぐ姿を見て絵に描いていた。年月がたつにつれて、その絵はますます精妙になった。

ある年、興義は病にかかり、七日後に息を引き取った。しかし、胸のあたりがわずかに温かいので、弟子たちは、もしやと思って、葬らずに見守っていた。すると三日目に、興義は、手足を動かして、息を吹き返した。

興義は、「檀家の平の助の殿のところで、今ごろ宴をしているはずだ。行って呼んできてくれ」と言った。使いの者が行ってみると、本当に宴の最中で、興義の言葉どおり、膾(刺身)にするための鯉を料理しようとしているところであった。

興義は、やって来た助の殿たちに、不思議な話を語った。「私は、病の苦しさに耐えかねて、杖にすがって門を出ると、体が軽くなって、湖に出た。水に入って泳ぐうちに、湖の神の使いが現れて、『おまえは、放生の功徳が多いので、しばらく鯉の姿となって、水の中の楽しみを味わうがよい』と、金色の鱗を授けてくれた。私は鯉となって、琵琶湖を自由に泳ぎ回った。

やがて腹が減って、漁師の文四の釣り糸にかかった餌に、つい食いついてしまった。私は、『私は興義だ』と叫んだが、誰にも聞こえない。文四は私を助の殿の屋敷へ持っていき、料理人がまな板の上で、私を切ろうとした。その刃が私に触れたとき、目が覚めたのだ」。人々はみな驚き、残っていた鯉を湖に放した。

興義は、その後、天寿を全うした。臨終のとき、描いた鯉の絵を湖に放つと、鯉は紙から抜け出して、水の中を泳いでいったという。そのため、興義の絵は、世に伝わっていない。

地点メモ:「夢応の鯉魚」— 鯉の絵の名手・興義が夢の中で鯉となって琵琶湖を泳ぐ。
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