うらやましく見えるもの。お経などを習うときに、ひどくたどたどしく、忘れがちで、繰り返し同じところを読むのに、法師はもちろん、男も女も、すらすらと楽々と読んでいるのは、あの人のようにいつになったらなれるのだろうと思われる。
稲荷に思い立って参詣したときに、中の御社のあたりで、わけもなく苦しいのを我慢して登っていると、少しも苦しそうな様子もなく、後から来ると見える者どもが、どんどん先に立って参詣するのは、たいそううらやましい。
二月の午の日(初午)の明け方に急いで出発したけれど、坂の半分ほど歩いたところで、もう午前十時ごろになってしまった。だんだん暑くまでなってきて、本当につらくて、「どうしてこんな、ほかにもよい日があるだろうに、なぜ参詣したのだろう」とまで涙が落ちて、疲れ果てて休んでいると、四十過ぎくらいの女で、壺装束などではなく、ただ着物の裾をたくし上げただけの者が、「私は七度詣でをするのです。三度はもう参詣しました。あと四度くらいは何でもありません。未の刻(午後二時)には家に帰れるでしょう」と、道で会った人に話しながら下っていった。ふだんの場所ではまったく目にもとまらないだろうに、そのときは、この女の身に今すぐなりたいと思ったことであった。
伏見稲荷大社は、稲荷山の山頂まで上中下の社が点在し、参詣者はそれらを巡拝した。平安時代から初午の日の稲荷詣は都の人々の大きな行事で、清少納言もその人波の中で、息を切らして坂を登っていたのである。