元弘三年(一三三三年)、楠木正成は、金剛山の中腹に千早城を築いて立てこもった。城の周囲は一里にも満たない小さな山城で、兵もわずか千人足らずであった。これを攻める幕府軍は、百万騎とも言われる大軍で、城のまわりの山々を埋め尽くした。
幕府軍は、「こんな小さな城、一日で落としてみせよう」と、我先にと城の崖を攀じ登ってきた。正成は、城の上から大石を次々と投げ落とさせたので、攻め手は盾を砕かれ、谷底へ転げ落ちて、死者は数え切れなかった。
攻め手は力攻めをあきらめ、城の水源を断とうとした。しかし正成は、あらかじめ山の中に五つの泉を掘り、大きな水槽を用意して、雨水をためていたので、少しも困らなかった。
正成は、わら人形を二、三十体作って、甲冑を着せ、弓矢を持たせて、夜のうちに城の麓に立て並べた。夜明けとともに、城から鬨の声を上げると、攻め手は「城の兵が打って出てきた」と、われ先に人形に襲いかかった。そこへ城の上から大石を落としたので、多くの兵が討たれた。
攻め手が長い梯子を谷に架けて、城に渡ろうとすると、正成は、あらかじめ用意しておいた松明に油を注いで梯子に投げつけ、火をつけた。梯子は燃え落ち、渡っていた兵たちは谷底へ落ちていった。
こうして千早城は、百日にわたって大軍を食い止めた。たった一つの小城が落ちないという噂は全国に広がり、各地で倒幕の兵が挙がった。やがて足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府はついに滅びた。