十四 雪中の洪水

北越雪譜 原文
原文現代語訳

大小の川に近(ちか)き村里(むらさと)、初雪の後(のち)洪水(こうずゐ)の災(わざはひ)に苦(くるし)む事あり。洪水(こうずゐ)を此国の俚言(りげん)に水揚(みづあがり)といふ。余(よ)一年(ひとゝせ)関(せき)といふ隣駅(りんえき)の親族(しんぞく)油屋が家に止宿(ししゆく)せし時、頃(ころ)は十月のはじめにて雪八九尺つもりたるをりなりしが、夜半(やはん)にいたりて近隣(きんりん)の諸人(しよにん)叫(さけ)び呼(よば)はりつゝ立騒(さわ)ぐ声(こゑ)に睡(ねふり)を驚(おどろか)し、こは何事(なにごと)やらんと胷(むね)もをどりて臥(ふし)たる一間(ひとま)をはせいでければ、家(いへ)の主(あるじ)両手(りやうて)に物(もの)を提(さげ)、水あがり也とく〳〵裏(うら)の掘揚(ほりあげ)へ立退(たちのき)給へ、といひすてゝ持たる物を二階へ運(はこ)びゆく。勝手(かつて)の方へ立いで見れば家内(かない)の男女狂気(きやうき)のごとく駈(かけ)まはりて、家財(かざい)を水に流(なが)さじと手当(てあたり)しだいに取退(とりのく)る。水は低(ひくき)に随て潮(うしほ)のごとくおしきたり、已(すで)に席(たゝみ)を浸(ひた)し庭(には)に漲(みなぎ)る。次第に積(つもり)たる雪所(ところ)として雪ならざるはなく、雪光(せつくわう)暗夜(あんや)を照(てら)して水の流(ながる)るありさま、おそろしさいはんかたなし。余(よ)は人に助(たす)けられて高所(たかきところ)に逃登(にげのぼ)り遙(はるか)に駅中(えきちゆう)を眺(のぞめ)ば、提灯(ちやうちん)炬(たいまつ)を燈(とも)しつれ大勢の男ども手(てに)々に木鋤(こすき)をかたげ、雪を越(こえ)水を渉(わたり)て声(こゑ)をあげてこゝに来(きた)る。これは水揚(みづあがり)せざる所(ところ)の者(もの)どもこゝに馳(はせ)あつまりて、川筋(すぢ)を開(ひら)き水を落(おと)さんとする也。闇夜(あんや)にてすがたは見えねど、女(をんな)童(わらべ)の泣叫(なきさけ)ぶ声(こゑ)或(あるひ)は遠(とほ)く或は近(ちか)く、聞(きく)もあはれのありさま也。燃残(もえのこ)りたる炬(たいまつ)一ツをたよりに人も馬も首(くび)たけ水に浸(ひた)り、漲(みなぎ)るながれをわたりゆくは馬を助(たすけ)んとする也。帯(おび)もせざる女片手(かたて)に小児(せうに)を背負(せおひ)、提灯(ちやうちん)を提(さげ)て高処(たかきところ)へ逃(にげ)のぼるは、近(ちか)ければそこらあらはに見ゆ、命(いのち)とつりがへなればなにをも恥(はづか)しとはおもふべからず。可笑(をかしき)事可憐(あはれ)なる事可怖(おそろし)き事種々(しゆ〴〵)さま〴〵筆(ふで)に尽(つく)しがたし。やう〳〵東雲(しのゝめ)の頃(ころ)に至(いた)りて、水も落(おち)たりとて諸人(しよにん)安堵(あんど)のおもひをなしぬ。

○そも〳〵我郷(わがさと)雪中の洪水(こうずゐ)、大かたは初冬と仲春とにあり。此(この)関(せき)といふ駅(しゆく)は左右人家(じんか)の前(まへ)に一道(ひとすぢ)づゝの流(ながれ)あり、末(すゑ)は魚野川(うをのかは)へ落る、三伏(さんふく)の旱(ひでり)にも乾(かわ)く事なき清流水(せいりうすゐ)也。ゆゑに家毎(いへごと)に此(この)流(ながれ)を以(もつ)て井水(ゐすゐ)の代(かは)りとし、しかも桶(をけ)にても汲(くむ)べき流(ながれ)なれば、平日の便利(べんり)井戸よりもはるかに勝(まされ)り。しかるに初雪(しよせつ)の後(のち)十月のころまでにこの二条(ふたすぢ)の小流(こながれ)雪の為(ため)に降埋(ふりうめ)られ、流水は雪の下にあり、故(ゆゑ)に家毎(いへごと)に汲(くむ)べき程(ほど)に雪を穿(うがち)て水用(すゐよう)を弁ず。この穿(うがち)たる所も一夜の雪に埋(うづめ)らるゝことあれば再(ふたゝび)うがつ事屡(しば〳〵)なり。人家(じんか)にちかき流(ながれ)さへかくのごとくなれば、この二条(すぢ)の流(ながれ)の水源(みなかみ)も雪に埋(うづも)れ、水用(すゐよう)を失(うしの)ふのみならず水あがりの懼(おそれ)あるゆゑ、所(ところ)の人力(ちから)を併(あはせ)て流のかゝり口の雪を穿(うがつ)事なり。されども人毎(ひとごと)に業用(げふよう)にさゝへて時を失(うしな)ふか、又は一夜の大雪にかの水源(すゐげん)を塞(ふさ)ぐ時は、水溢(あぶれ)て低(ひくき)所を尋(たづね)て流(なが)る。駅中(えきちゆう)は人の往来(ゆきゝ)の為(ため)に雪を蹈(ふみ)へして低(ひくき)ゆゑ、流水(りうすゐ)漲(みなぎ)り来(きた)り猶(なほ)も溢(あぶれ)て人家に入り、水難(すゐなん)に逢(あ)ふ事前(まへ)にいへるがごとし。幾(いく)百人の力を尽(つく)して水道(すゐだう)をひらかざれば、家財(かざい)を流(なが)し或(あるひ)は溺死(できし)におよぶもあり。

○又(また)仲春の頃(ころ)の洪水(こうずゐ)は大かたは春の彼岸(ひがん)前後(ぜんご)也。雪いまだ消(きえ)ず、山々はさら也田圃(たはた)も渺々(べう〳〵)たる曠平(くわうへい)の雪面(せつめん)なれば、枝川(えだかは)は雪に埋(うづも)れ水は雪の下を流れ、大河といへども冬の初より岸(きし)の水まづ氷(こほ)りて氷の上に雪をつもらせ、つもる雪もおなじく氷りて岩のごとく、岸(きし)の氷りたる端(はし)次第(しだい)に雪ふりつもり、のちには両岸(りやうがん)の雪相合(あひがつ)して陸地(りくち)とおなじ雪の地となる。さて春を迎(むか)へて寒気次第に和(やは)らぎ、その年の暖気(だんき)につれて雪も降止(ふりやみ)たる二月の頃(ころ)、水気(すゐき)は地気(ちき)よりも寒暖(かんだん)を知(し)る事はやきものゆゑ、かの水面(すゐめん)に積(つも)りたる雪下(した)より解(とけ)て凍(こほ)りたる雪の力も水にちかきは弱(よわ)くなり、流(ながれ)は雪に塞(ふさが)れて狭(せま)くなりたるゆゑ水勢(すゐせい)ます〳〵烈(はげ)しく、陽気(やうき)を得(え)て雪の軟(やはらか)なる下を潜(くゞ)り、堤(つゝみ)のきるゝがごとく、譬(たとへ)にいふ寝耳(ねみゝ)に水の災難(さいなん)にあふ事、雪中の洪水(こうずゐ)寒国の艱難(かんなん)、暖地(だんち)の人憐(あはれみ)給へかし。右は其一をいふのみ。雪中の洪水地勢によりて種々(しゆ〴〵)各々(さま〴〵)なり。詳(つまびらか)には弁(べん)じがたし。

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