大小の川に近き村里、初雪の後洪水の災に苦む事あり。洪水を此国の俚言に水揚といふ。余一年関といふ隣駅の親族油屋が家に止宿せし時、頃は十月のはじめにて雪八九尺つもりたるをりなりしが、夜半にいたりて近隣の諸人叫び呼はりつゝ立騒ぐ声に睡を驚し、こは何事やらんと胷もをどりて臥たる一間をはせいでければ、家の主両手に物を提、水あがり也とく〳〵裏の掘揚へ立退給へ、といひすてゝ持たる物を二階へ運びゆく。勝手の方へ立いで見れば家内の男女狂気のごとく駈まはりて、家財を水に流さじと手当しだいに取退る。水は低に随て潮のごとくおしきたり、已に席を浸し庭に漲る。次第に積たる雪所として雪ならざるはなく、雪光暗夜を照して水の流るありさま、おそろしさいはんかたなし。余は人に助けられて高所に逃登り遙に駅中を眺ば、提灯炬を燈しつれ大勢の男ども手々に木鋤をかたげ、雪を越水を渉て声をあげてこゝに来る。これは水揚せざる所の者どもこゝに馳あつまりて、川筋を開き水を落さんとする也。闇夜にてすがたは見えねど、女童の泣叫ぶ声或は遠く或は近く、聞もあはれのありさま也。燃残りたる炬一ツをたよりに人も馬も首たけ水に浸り、漲るながれをわたりゆくは馬を助んとする也。帯もせざる女片手に小児を背負、提灯を提て高処へ逃のぼるは、近ければそこらあらはに見ゆ、命とつりがへなればなにをも恥しとはおもふべからず。可笑事可憐なる事可怖き事種々さま〴〵筆に尽しがたし。やう〳〵東雲の頃に至りて、水も落たりとて諸人安堵のおもひをなしぬ。
○そも〳〵我郷雪中の洪水、大かたは初冬と仲春とにあり。此関といふ駅は左右人家の前に一道づゝの流あり、末は魚野川へ落る、三伏の旱にも乾く事なき清流水也。ゆゑに家毎に此流を以て井水の代りとし、しかも桶にても汲べき流なれば、平日の便利井戸よりもはるかに勝り。しかるに初雪の後十月のころまでにこの二条の小流雪の為に降埋られ、流水は雪の下にあり、故に家毎に汲べき程に雪を穿て水用を弁ず。この穿たる所も一夜の雪に埋らるゝことあれば再うがつ事屡なり。人家にちかき流さへかくのごとくなれば、この二条の流の水源も雪に埋れ、水用を失ふのみならず水あがりの懼あるゆゑ、所の人力を併て流のかゝり口の雪を穿事なり。されども人毎に業用にさゝへて時を失ふか、又は一夜の大雪にかの水源を塞ぐ時は、水溢て低所を尋て流る。駅中は人の往来の為に雪を蹈へして低ゆゑ、流水漲り来り猶も溢て人家に入り、水難に逢ふ事前にいへるがごとし。幾百人の力を尽して水道をひらかざれば、家財を流し或は溺死におよぶもあり。
○又仲春の頃の洪水は大かたは春の彼岸前後也。雪いまだ消ず、山々はさら也田圃も渺々たる曠平の雪面なれば、枝川は雪に埋れ水は雪の下を流れ、大河といへども冬の初より岸の水まづ氷りて氷の上に雪をつもらせ、つもる雪もおなじく氷りて岩のごとく、岸の氷りたる端次第に雪ふりつもり、のちには両岸の雪相合して陸地とおなじ雪の地となる。さて春を迎へて寒気次第に和らぎ、その年の暖気につれて雪も降止たる二月の頃、水気は地気よりも寒暖を知る事はやきものゆゑ、かの水面に積りたる雪下より解て凍りたる雪の力も水にちかきは弱くなり、流は雪に塞れて狭くなりたるゆゑ水勢ます〳〵烈しく、陽気を得て雪の軟なる下を潜り、堤のきるゝがごとく、譬にいふ寝耳に水の災難にあふ事、雪中の洪水寒国の艱難、暖地の人憐給へかし。右は其一をいふのみ。雪中の洪水地勢によりて種々各々なり。詳には弁じがたし。