十七 熊人を助

北越雪譜 原文
原文現代語訳

人熊の穴に墜(おちいり)て熊に助られしといふ話(はなし)諸書(しよしよ)に散見(さんけん)すれども、其実地(じつち)をふみたる人の語(かた)りしは珍(めづらし)ければこゝに記(しる)す。

○余(よ)若かりし時、妻有(つまあり)の庄(しやう)に(魚沼郡の内に在)用ありて両三日逗留(とうりう)せし事ありき。頃(ころ)は夏なりしゆゑ客舎(やどりしいへ)の庭(には)の木(こ)かげに筵(むしろ)をしきて納涼(すゞみ)居しに、主人(あるじ)は酒を好(この)む人にて酒肴(しゆかう)をこゝに開き、余(よ)は酒をば嗜(すか)ざるゆゑ茶を喫(のみ)て居たりしに、一老夫(いちらうふ)こゝに来り主人を視(み)て拱手(てをさげ)て礼をなし後園(うらのかた)へ行んとせしを、主(あるじ)呼(よび)とめ老(らう)夫を指(ゆびさし)ていふやう、此叟父(おやぢ)は壮年時(わかきとき)熊に助られたる人也、危(あやふ)き命(いのち)をたすかり今年八十二まで健(すこやか)に長生(ながいき)するは可賀(めでたき)老人也、識面(ちかづき)になり給へといふ。老夫莞爾(にこり)として再(ふたゝび)去(さら)んとす。余(よ)よびとゞめ、熊に助られしとは珍説(ちんせつ)也語りて聞せ給へといひしに、主人(あるじ)余(よ)が前に在し茶盌(ちやわん)をとりてまづ一盃喫(のめ)とて酒を満盌(なみ〳〵)とつぎければ、老夫(らうふ)筵(むしろ)の端(はし)に坐し酒を視(み)て笑(ゑみ)をふくみ続(つゞけ)て三盌(ばい)を喫(きつ)し舌鼓(したうち)して大に喜(よろこ)び、さらば話説(はなし)申さん、我廿歳(はたちのとし)二月のはじめ薪(たきゞ)をとらんとて雪車(そり)を引(ひき)て山に入りしに、村にちかき所は皆伐(きり)つくしてたま〳〵あるも足場あしきゆゑ、山一重(ひとへ)踰(こえ)て見るに、薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在(じざい)に伐(きり)とり、雪車(そり)哥うたひながら徐々(しづかに)束(たばね)、雪車に積(つみ)て縛つけ山刀(やまかたな)をさしいれ、低(ひくき)に随(したがつ)て今来りたる方へ乗下(のりくだ)りたるに、一束(いつそく)の柴雪車より転(まろ)び落(おち)、谷を埋(うづめ)たる雪の裂隙(われめ)にはさまり(凍りし雪陽気を得て裂る事常也)たるゆゑ、捨て皈(かへら)んも惜(をし)ければその所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするにすこしも動(うごか)ず、落たる勢(いきほひ)に撞(つき)いれたるならん、さらば重(おもき)かたより引上んと匍匐(はらばひ)して双手(もろて)を延(のば)し一声かけて上んとしたる時、足に蹈(ふむ)力なきゆゑおのれがちからに己(おのれ)が躰(からだ)を転倒(ひきくらかへし)、雪の裂隙(われめ)より遙(はるか)の谷底へ墜(おちいり)けるが、雪の上を濘(すべり)落たるゆゑ幸(さいはひ)に疵(きず)はうけず、しばしは夢のやう也しがやう〳〵に心付、上を見れば雪の屏風(びやうぶ)を建(たて)たるがごとく今にも雪頽(なだれ)やせんと(なだれのおそろしき事下にしるす)生(いき)たる心地はなく、暗(くらさ)はくらし、せめては明方(あかるきかた)にいでんと雪に埋(うまり)たる狭谷間(せまきたにあひ)をつたひ、やう〳〵にして空(そら)を見る所にいたりしに、谷底の雪中寒(さむさ)烈(はげ)しく手足も亀手(かゞまり)一歩(ひとあし)もはこびがたく、かくては凍死(こゞえしぬ)べしと心を励(はげま)し猶途(みち)もあるかと百歩(はんちやう)ばかり行たりけん、滝ある所にいたり四方を見るに、谷間の途極(ゆきとまり)にて甕(かめ)に落たる鼠(ねずみ)のごとくいかんともせんすべなく惘然(ばうぜん)として胷(むね)せまり、いかゞせんといふ思案(しあん)さヘ出ざりき。さて是より熊の話(はなし)也、今一盃たまはるべしとて自(みづから)酌(つぎ)てしきりに喫(のみ)、腰(こし)より烟艸帒(たばこいれ)をいだして烟(たばこ)を吹(のみ)などするゆゑ、其次(つぎ)はいかにとたづねければ、老父(らうふ)曰(いはく)、さて傍(かたはら)を見れば潜(くゞる)べきほどの岩窟(いはあな)あり、中には雪もなきゆゑはひりて見るにすこし温(あたゝか)也。此時こゝろづきて腰をさぐりみるに握飯(にぎりめし)の弁当(べんたう)もいつかおとしたり、かくては飢死(うゑじに)すべし、さりながら雪を喰(くらひ)ても五日や十日は命あるべし、その内には雪車哥(そりうた)の声(こゑ)さへ聞(きこゆ)れば村の者也、大声あげて叫(よば)らば助(たすけ)くれべし、それにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしと、しきりに念仏唱(とな)へ、大神宮をいのり日もくれかゝりしゆゑ、こゝを寝所(ねどころ)にせばやと闇地(くらがり)を探(さぐ)り〳〵這(は)入りて見るに次第(しだい)に温(あたゝか)也。猶(なほ)も探(さぐ)りし手先(てさき)に障(さはり)しは正(まさ)しく熊也。愕然(びつくり)して胷(むね)も裂(さけ)るやう也しが逃(にげる)に道なく、とても命の期(きは)なり死(しぬ)も生(いきる)も神仏にまかすべしと覚悟(かくご)をきはめ、いかに熊どの我(わし)は薪(たきゞ)とりに来り谷へ落(おち)たるもの也、皈(かへる)には道がなく生(いき)て居(をる)には喰(くひ)物がなし、とても死(しぬ)べき命也、擘(ひきさき)て殺(ころさ)ばころし給へ、もし情(なさけ)あらば助たまへと怖々(こは〳〵)熊を撫(なで)ければ、熊は起(おき)なほりたるやうにてありしが、しばしありてすゝみいで我(わし)を尻(しり)にておしやるゆゑ、熊の居(ゐ)たる跡へ坐(すはり)しにそのあたゝかなる事巨燵(こたつ)にあたるごとく全身(みうち)あたゝまりて寒(さむさ)をわすれしゆゑ、熊にさま〴〵礼をのべ猶もたすけ玉へと種々(いろ〳〵)悲(かな)しき事をいひしに、熊手をあげて我(わし)が口へ柔(やはらか)におしあてる事たび〳〵也しゆゑ、蟻(あり)の事をおもひだし舐(なめ)てみれば甘(あま)くてすこし苦(にが)し。しきりになめたれば心爽(さはやか)になり咽(のど)も潤(うるほ)ひしに、熊は鼻息(はないき)を鳴(なら)して寝(ねいる)やう也。さては我を助(たすく)るならんと心大におちつき、のちは熊と脊(せなか)をならべて臥(ふし)しが宿の事をのみおもひて眠気(ねむけ)もつかず、おもひ〳〵てのちはいつか寝入(ねいり)たり。かくて熊の身動(みうごき)をしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆゑ夜の明(あけ)たるをしり、穴をはひいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべき藤(ふぢ)づるにてもあるかとあちこち見れどもなし、熊も穴をいでゝ滝壺(たきつぼ)にいたり水をのみし時はじめて熊を見れば、犬を七ツもよせたるほどの大熊也。又もとの窟(あな)へはいりしゆゑ我(わし)は窟(あな)の口に居(ゐ)て雪車哥(そりうた)のこゑやすらんと耳(みゝ)を澄(すま)して聞居(きゝゐ)たりしが、滝の音のみにて鳥の音(ね)もきかず、その日もむなしく暮(くれ)て又穴に一夜をあかし、熊の掌(て)に飢(うゑ)をしのぎ、幾日(いくか)たちても哥はきかず、その心細(ほそ)き事いはんかたなし。されど熊は次第(しだい)に馴(なれ)可愛(かあいく)なりしと語るうち、主人は微酔(ほろゑひ)にて老夫(らうふ)にむかひ、其熊は牝(め)熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ、又酒をのませ盃の献酬(やりとり)にしばらく話消(はなしきえ)けるゆゑ強(しひ)て下回(そのつぎ)をたづねければ、老夫(らうふ)曰(いはく)、人の心は物にふれてかはるもの也、はじめ熊に逢(あひ)し時はもはや死地(こゝでしす)事と覚悟(かくご)をばきはめ命も惜(をし)くなかりしが、熊に助(たすけ)られてのちは次第(しだい)に命がをしくなり、助(たすく)る人はなくとも雪さへ消(きえ)なば木根(きのね)岩角(いはかど)に縋(とりつき)てなりと宿へかへらんと、雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへ忘(わすれ)て虚々(うか〳〵)くらししが、熊は飼犬(かひいぬ)のやうになりてはじめて人間の貴(たふとき)事を知(し)り、谷間(たにあひ)ゆゑ雪のきゆるも里よりは遅(おそ)くたゞ日のたつをのみうれしくありしに、一日(あるひ)窟(あな)の口の日のあたる所に虱(しらみ)を捫(とり)て居(ゐ)たりし時、熊窟(あな)よりいで袖を咥(くはへ)て引しゆゑ、いかにするかと引れゆきしにはじめ濘落(すべりおち)たるほとりにいたり、熊前(さき)にすゝみて自在(じざい)に雪を掻掘(かきほり)一道(ひとすぢ)の途(みち)をひらく、何方(いづく)までもとしたがひゆけば又途(みち)をひらき〳〵て人の足跡(あしあと)ある所にいたり、熊四方(しはう)を顧(かへりみ)て走(はし)り去(さり)て行方しれず。さては我を導(みちびき)たる也と熊の去(さり)し方を遥拝(ふしをがみ)かず〳〵礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭(おかげ)ぞとお伊勢さま善光寺(ぜんくわうじ)さまを遥拝(ふしをがみ)うれしくて足の蹈所(ふみど)もしらず、火点頃(ひとぼしころ)宿へかへりしに、此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり。両親はじめ驚愕(びつくり)せられ幽灵(いうれい)ならんとて立さわぐ。そのはづ也。月代(さかやき)は簑(みの)のやうにのび面(つら)は狐のやうに痩(やせ)たり、幽灵とて立さわぎしものちは笑となりて、両親はさら也人々もよろこび、薪とりにいでし四十九日目の待夜(たいや)也とていとなみたる仏㕝(ぶつじ)も俄(にはか)にめでたき酒宴(さかもり)となりしと仔細(こまか)に語(かた)りしは、九右エ門といひし小間居(こまゐ)の農夫(ひやくしやう)也き。其夜燈下(ともしびのもと)に筆をとりて語りしまゝを記(しる)しおきしが、今はむかしとなりけり。

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