魚沼郡の宇賀地の郷、堀之内の鎮守である宇賀地神社は、本社は八幡宮で、大昔から鎮座しておられるという。縁起は長いのでここでは省く。霊験あらたかなことは広く世に知られている。神主の宮氏の家には、貞和や文明のころの記録が今も残っている。当主は文雅を好み、和歌にも長じ、雅号を正樹という。私も同じ道を好むので交わりを結んでいる。「幣下」と呼ばれる末社の家もあちこちにたくさんある大社である。
この神の氏子で、堀之内で嫁を迎えたり婿を取ったりした者には、神のお告げとして婿に水をたまわる。これを「花水祝い」という。毎年正月十五日の神事である。新婚のあった家ごとに神の使いを遣わされるので、家数が多いときは早朝から夕暮れまでかかることもある。友人の黙斎翁(堀之内の人、宮治兵衛)は、「花水祝いというのは、淡路の宮の瑞井(みずのい)の井戸に多遅(たじ)の花が落ちためでたいことが『日本書紀』に見えるのが始まりで、花水の名はここから起こったのではないか」と言われた。だから新婚の婿に神水を注ぐのは、この神社の秘事だという。
当日、新婚のあった家へ神の使いとなる人は、百姓のうち旧家で家柄のよい者の中で、神使を務める家が決まっている。その中で、喪中の者はもちろん、やもめの者、家に病人のいる者、親類に不幸のあった者をみな除き、家に少しも差しさわりがなく平穏無事な者を選ぶ。神事の前の朝、神主が沐浴して身を清め、祭服を着て本殿にのぼり、選んだ人々の名を書いてくじにかけ、神の御心に任せて神使を決める。神使に当たった人は身を清めて役を務める。これを「大夫」という(黙斎翁は、これはつまり浄行の神人だと言った。大夫とは土地の呼び名である)。
さて当日(正月十五日)、神使が本社を出る行列は、まず挟み箱、二本道具(毛槍)、台笠、立傘、弓二張、薙刀。神使は侍烏帽子に素襖。次に太刀持ち、長柄持ち、傘をさしかける供侍二人、草履取り、うしろに槍一本(これらの品々は神社の蔵にあるものを使う)。次に氏子の人々が大勢、麻の裃で従う。このような行列で新婚の家へ行くので、それに先立って雪の中に道を作り、雪で山道のようになっているところは雪を石段のように作り、あるいは雪で桟敷のようなところを作って見物の便にする。これらにもたくさんの人夫を使う。
その家では家の中をよくよく清め、とりわけその日「正殿の間」と呼ぶ一間は塩垢離で清めて神使の席とする。色どりのある筵を敷き並べ、上座に毛氈を敷き、上段の間に表して刀掛けを置く。次の間には、親類はもちろん親しい人々からの祝いの贈り物を並べておく。島台などに祝いの歌を添えたものなど、思い思いである。門には幕を張り、ほどよいところを絞りあげて、そこに沓脱ぎの台を置き、玄関の式台に見立てる。家の者はみな着物を改めて神使を待つ。神使が来ると聞けば、親のある者は親子で麻の裃を着て、外へ出て神使を迎える。神使の草履取りが先に駆けてきて、いばったようすで大声で「正一位三社宮の使者」と呼ばわる。神使を見て、主人は地面に平伏し、神使を案内してその正殿の間に座らせる。行列は家の左右で隊をなす。さて神使にたばこ盆、茶、吸い物、膳を出し、何献か酒をすすめる。改めて婿に盃を与え(三方にかわらけ)、肴をはさむ。盃のやりとりは七献までとし、盃ごとに祝いの小謡を歌う。事が終わると神使は去る。ほかに新婚のあった家があれば、またそこへ行き、式は前と同じである。この神使は、花水をたまわることを神から氏子へ告げる使いである(神使は神社へ帰るとき、名主の家に立ち寄って酒と肴のもてなしを受ける)。
神使が神社へ帰ったのを見て、踊りの行列を繰り出す。一番は傘鉾で、錦の水引をかけめぐらし、端に鈴をつけ、また細工物をいろいろ下げる。傘鉾の上には諫鼓(かんこ)を飾る。これを持つ者二人は、紫のちりめんで頬を包んで結び垂らし、同じく紅絞りなどを片たすきにかける。黙斎翁は「すべて祭礼に使う傘鉾というものは、古くは羽葆蓋の字をあてて読み、いわゆる繖(きぬがさ)で、神輿や鳳輦を覆いたてまつる錦の蓋である」と言った。なお説があったが、長いので省く。
二番は、面をつけて天鈿女(あめのうずめ)に扮した者一人が、箒の先に紙に女陰を描いたものをつけて担ぐ。次に、これも面をつけて猿田彦に扮した者一人が、麻で作った頭巾のようなものをかぶり、手杵の先を赤く塗って男根に見立てたものを担ぐ。三番に、法衣を美しく飾った山伏がほら貝を吹く。四番に、子どもの警固が思い思いに着飾って従う。次に大人の警固が麻の裃で杖を持ち、非常を戒める。五番に、踊り手が大勢、華やかな浴衣(正月だが人いきれで暑いので浴衣である)に色のある細帯をしめて群れをなして行く。土地の言葉でこれを「ごうりんしょう」という。これは「降臨象」だろう。皇孫が日向の高千穂の峰に天降られたのにかたどる意味だろうと黙斎翁は言った。なお説があったが省く。
婿の家では、この踊り場も自分の家の前に設けておき、新しい筵を敷き、新しい手桶二つに水を汲み入れ、松葉と昆布を水引で結びつけて筵の上に置き、銚子と盃を添えておく。「水取り」といって婿に水を浴びせる者二人と、「副取り」という者二人が、それぞれたすきをかけ、りりしいいでたちで出てくる。婿は浴衣に細帯で踊りの来るのを待つ。踊りが家に近づくと行列が開き、踊り手はその筵のまわりに群がって歌いながら踊る。その歌は「〽めでためでたの若松さまは、枝も栄える、葉も茂る」「〽さんやめでたい花水さんや、背なに浴びせん、わが背なに」。くり返しくり返し、唱歌を変えて歌い踊る。手慣れた踊りの警固と水取りたちは頃合いを見はからって婿に三献の祝いをさせ、手桶の水を二人で左右から婿の頭へ滝のように浴びせかける。これを見て人々は手を打って躍りあがり、「めでたい、めでたい」と祝う。婿はそのまま自分の家へ駆けこみ、踊りはなおも家の中まで押し入って七、八回踊り歌い、どやどやと立ち去って、再び初めのように列をなして、ほかの婿の家へ行く。事が終わっても、踊りは宿役の家や縁のある家などにも入って踊り歩く。田舎は見物がまれなので、この日は遠く近くの老若男女がこれを見ようと蟻のように集まり、押し合いへし合いして熱気にあふれることは、筆には書き尽くせない。
○思うに、婿に水を注ぐのは、男の陽の火に女の陰の水を浴びせて子を授かるようにするまじないで、妻の火(嫉妬)を鎮めるという祝い事である。これは室町時代のころに武家の習俗から起こり、農民や商人もこれにならって行われるようになったと物の本に見える(貝原益軒先生の歳時記には、松永弾正の婚礼から起こったという)。江戸では宝永のころまで、世間一般で正月十五日の行事として祝儀のようになって大いにはやった。そのため婿に恨みのある者が、水祝いにかこつけていろいろな乱暴をすることもままあり、人が死ぬことにもしばしば及んだので、正徳のころ禁令が出て、この行事は絶えた。詳しくは『昔々物語』というものに見える(幕府の初めからのことを記した写本で、元禄のころを盛りに過ごした人が年をとってから書いたもの)。この花水祝いは神の秘事だというから、別にいわれもあるのだろう。畏れ多いことだ。雪のついでにその大略を記して、古いことを好む人の話の種に供するだけである。