越後の頸城郡松の山は一庄の総名にて、許多の村落を併合たる大庄也。いづれも山間の村落にして一村の内といへども平地なし。たゞ松代といふ所のみ平地にて、農家軒を連ぬ。外百番の謡に見えし松山鏡といふも此地也。そのうたひにある鏡が池の古跡もこゝにあり、今は池にもあらぬやうに埋れたれど、その跡とてのこれり。按るに、松山かゞみのうたひは鏡破の絵巻といふものを原として作れるならん、此ゑまきにも右の松の山の事見えたり。さて松の山の庄内に菱山といふあり、山の形三角なるゆゑの名なるべし。山にちかき処に須川村(川によりて名づく)菖蒲村といふあり。此ひし山、毎年二月に入り夜中にかぎりて雪頽あり、其ひゞき一二里に聞ゆ。伝ていふ、白髪白衣の老翁幣をもちてなだれに乗り下るといふ。また此なだれ須川村の方へ二十町余の処真直に突下す年は豊作也、菖蒲村の方へ斜にくだす年は凶作也。其験少も違ふ事なし。年の豊凶雪頽に係る事此山にのみ限るも一奇事といふべし。
因にいふ、余が旧友寺泊に住丸山氏の(医家)祖父は博学の聞えありし人なりき。余二十年前丸山氏の家に遊笻をとゞめし時、祖父が宝暦の頃の著述也とて、越後名寄といふ書を見せられしに、三百巻自筆の写本也。名寄とはあれど越後の風土記なり。一国の神社仏閣名所旧跡山川地理人物国産薬品の類までも、部を分図をいだして通暁しやすくしたる精撰也。此書に右菱山の説も粗見えたれど、さのみはとて引ず。菱山の事をいふにつきて此書の事をおもひいだせしが、かゝる精撰大成の書も空しく秘笈にありて世にしられざるが惜ければこゝにいへり。