四十 秋山の古風

北越雪譜 現代語訳
原文現代語訳

信濃と越後の国境に秋山というところがある。大秋山村というのを根本として、十五か村をまとめて秋山と呼ぶのである。秋山の中央に中津川という川があり(末は魚沼郡妻有の庄を流れて千曲川〔信濃川〕に入る)、川の東西に十五か村がある。

東側にある村は(●印は越後に属し、▲印は信濃に属す)、●清水川原村(人家二軒。それでも村の名で呼ぶ)、●三倉村(三軒)、●中の平村(二軒)、●大赤沢村(九軒)、●天酒村(二軒)、▲小赤沢村(二十八軒)、▲上の原(十三軒)、▲和山(五軒)。西側にある村は、●下結東村、●逆巻村(四軒)、●上結東村(二十九軒)、●前倉村(九軒)、▲大秋山村(人家が八軒あって、この地の根本の村で、先祖伝来の武具などを持っている者もいたが、天明三年卯の年の凶作のときに代金に換えて食料にし、それでも足りずに村じゅう一人残らず餓死して、今は草原になったと聞いた)、▲屋敷村(十九軒)、▲湯本(温泉がある)。

この地の東には苗場山が天にそびえて峰々がこれに続き、西には赤倉の高嶺が雲をしのいで山々がこれに並ぶ。清水川原が越後からの入り口で、湯本には信濃へ越える険しい道があるだけである。一人が守れば一万の兵も越えがたい、山あいの奥まった土地である。土地の言い伝えでは、ここは大昔、平家の人が隠れ住んだところだという。私、牧之が思うに、鎮守府将軍平維茂の四代の子孫である奥山太郎の孫、城の鬼九郎資国の嫡男、城の太郎資長の代まで、越後高田のあたりの鳥坂山に城を構えて一国に威をふるっていたが、謀叛のうわさがあって、鎌倉からの討手、佐々木三郎兵衛入道西念としばしば戦い、ついに落城した。このとき身分の高い人の落人などがこの秋山に隠れたのではないか。土地の言い伝えに平家というのも、いわれがあるように思われる。

この秋山には昔の風俗が自然に残っていると聞いたので、一度は訪ねてみたいと思っていたところ、この地をよく知っている案内人を得たので、ふと思い立ち、案内人の教えに従って、米・味噌・醤油・鰹節・茶・蝋燭までも用意して従者に持たせて出発した。文政十一年九月八日のことである。その日は秋山に近い見玉村の不動院に一泊し、翌日、桃源郷を訪ねる心地で秋山に分け入った。

入り口に清水川原という村がある。そこへ行こうとする道ばたに、丸木の柱を立て、注連縄を張りわたし、真ん中に高札がある。何ごとかと寄って見ると、子どもが書いたようなひらがなで「ほうそうある村方の者はこれより入れず」と書いてある。案内人が言うには、「秋山の人は疱瘡を死ぬのと同じくらい恐れます。なぜかというと、もし疱瘡にかかる者があれば、わが子でも家に置かず、山に仮小屋を作って入れておき、食べ物を運んで養うだけです。少し銭のある者は里から山伏を頼んで祈らせることもあります。それで十人のうち九人は死にます。だから秋山の人はよそへ行って疱瘡があると知ると、どんな用も捨てて逃げ帰ります。それでこの地では疱瘡にかかる者ははなはだまれで、十年に一人あるかないかです」と語った。

さて清水川原の村に着くと、家が二軒ある(家の造りがよそと変わっている。そのことは後に言う)。しばらくここで休んで出発すると、「ここからまず猿飛橋をご覧なさい」と案内人が先に立って行く。この秋山の道はすべて土地の人が通うためだけに開いた道で、牛馬はまったく使わないところなので、ことさら道が狭く、小笹などが深く茂って、やっと道を探すようなところがたびたびある。こうして中津川の岸に着いた。

岸の向かい、逆巻村へ行くところに橋がある。猿飛橋という橋のさまを見ると、たとえ猿でも翼がなければ飛べそうにない。両岸は絶壁で屏風を立てたようだが、岸から一丈あまり下に、両岸から向かい合って突き出した岩の鼻があり、これを頼りに橋を架けたのである。橋のあるところへ下りるためにはしごが設けてある。橋はまっすぐな丸木を二本並べ、細い木を藤づるで編みつけたものだ。渡りは二十間あまり、橋の幅は三尺足らず、欄干はもとよりない。橋を渡った向こう岸には、岸の大木に藤づるの綱を結んで垂らしてある。これにすがって岸にのぼる手がかりとする。ただ見るだけでも危なく、芭蕉が「蝶も居直る笠の上」と詠んだ木曾の桟(かけはし)にも少しも劣らない。「この橋を渡るのか」と言うと、案内人は「いやいや、今日はこちらの岸に沿って東の村々をご覧になり、小赤沢村へ行かれるのがちょうどよい道でしょう。小赤沢には知り合いもいますから宿を頼めます」と言う。

橋を渡らないと聞いて落ち着き、岩に腰かけて矢立を取り出し、橋を写したりしてあたりを見わたすと、渡る雁は峰を越えて雲に文字を並べ、走る猿は梢をつたって水に影を映す。珍しい木が崖に横たわって竜が眠っているようで、怪しい岩が道をふさいで虎が伏しているのに似ている。山林は遠く色づいて錦を敷き、谷川は深く激して藍を流している。金の壁が並び緑の山が連なるさまは、絵にもかなわない光景である。見飽きないのでしばらく休んでいると、農夫が二人やって来て、それぞれ包みを背負ってその橋を渡ろうとする。岸に立って見ていると、はしごを石段のように踏み下り、橋を平地のように歩いていく。その半ばまで来ると橋がゆらゆら揺れて、危ないことは言いようもなく、見ているだけで身の毛がよだつほどだった。渡り終えると、例の藤づるにすがって岸にのぼるさまは猿のようだった。思いがけず人の渡るのを見て、目を新たにした。

さてここを去り、例の細道をたどって、高いところへのぼり低いところへ下り、かなりの道のりを経てようやく三倉村に着いた。ここには人家が三軒ある。今朝見玉村で用意した弁当を開こうと、ある家に入ると、老女が「ようおいでなった」と言いながら、木の台の上に長い草を置いて、木の櫛のようなもので掻いて裂き分けている。何という草で何にするのかと聞くと、「山にある『いら』という草で、これを糸にして編み衣を作る」と言う。「編み衣」という名が珍しいので強いて尋ねると、老女は笑って答えない。案内人がそばから「編み衣というのは、ばあさんの着ているあれです」と言う。見ると、目の粗い布のようなものを袖なし羽織のようにしたものだった。

茶を頼むと、老女はやはりまず疱瘡のことを尋ねる。案内人が「我々は塩沢から秋山を見物に来た者だ。塩沢では去年から疱瘡はない」と言う。老女は「うちの者は今年は井戸の蛙のように縮こまって、里へは一度も出なかった」と言いながら汲んでくれた茶を見ると、煤を煮出したようなので、別に白湯を頼んで食事を終えた。

よくよくこの住まいを見ると、礎石も据えず、掘っ立ての柱に貫を藤づるで縛りつけ、菅を編みかけて壁とし、小さな窓がある。戸口は大木の皮一枚を平らにして横木を渡し、藤づるでくくりとめ、敷居もなくて扉にしている。茅葺きのいかにも低い家である。ただかりそめに作った草屋だが、里よりも雪が深いだろうと思えば、頑丈には作ってあるのだろう。家の中を見ると、わら筵のちぎれたのを敷き並べ(稲や麦のできない所なのでわらが乏しく、どの家も古い筵である)、納戸も戸棚もない。ただ菅縄で作った棚があるだけである。囲炉裏は五尺あまり、深さは灰まで二尺もあろう。薪の多い所なので大火を焚くからである。家にあり余っているものは大きな木鉢が三つ四つで、これはこの土地で作るからである。やかんや土瓶やすり鉢などはどの家にもない。秋山の人家はすべてこれと同じである。今日秋山に入ってここまでに家を五軒見たが、粟や稗を刈り入れるころなので、家にいる男を見なかった。

さて休んでいるうちに、栃の実を拾って山から帰ってきたという娘を見ると、髪は油気もなく丸めて束ねたのを紵(からむし)で結い、古びた手ぬぐいで鉢巻をし、垢じみた木綿の袷はふつうより一尺も短く、幅二寸ほどの木綿の帯をうしろで結んでいる(女が鉢巻をすることや帯の幅が狭いことは、古い絵にもたくさん見える古風である。着物の短いのも、身分の低い者の古風である)。秋山の女はみなこのようである。老女に土地の風俗などを尋ねたが、言葉が通じなくてまったくわからない。物を与えて、やがて立ち去った。

○こうして中の平村、天酒村、大赤沢村を経る道は、みな険しい山道で、この日の午後五時過ぎにようやく小赤沢に着いた。ここには人家が二十八軒あり、秋山のうちで二か所しかない大きな村である(上結東は二十九軒ある)。この村に市右衛門という村一番の大きな家がある。幸い案内人の知り合いなので宿を頼んで入ってみると、四間に六間ほどの住まいである。主人夫婦は老人で、長男は二十七、八、次に娘が三人いる。奥のほうに四畳ほどの一間があり、仕切りにはわら筵を垂らしてある(垂れ筵をすることは公家の屋敷にもあって、古い絵にもたくさん見える古風である)。台所のほうには日用の器がたくさん散らかっている中に、ここにも木鉢が三つ四つある。囲炉裏は例の大きく深いものである。

さて用意した米と味噌を取り出し、今朝清水川原村で手に入れた舞茸に、ここの芋などを取り合わせて、案内人が料理するというので「すり鉢を」と言うと、末の娘が棚の隅から取り出したのを見ると、ふだんは使わないらしい煤けたものだった。あとで聞くと、この秋山ですり鉢があるのはこの家とこの家の本家だけだという。この地では近年、豆を作りはじめて味噌も作るが、麹を入れることをせず、「ほだて汁」にするので、すり鉢は持たないのだという。この家にも別にかまどはなく、みな炉で煮炊きする。

やがて夜も暮れたので、姫小松を細く割ったものを灯にする。その光は部屋じゅうを照らして蝋燭にもまさる。案内人がこしらえたものを、そろわない碗に盛り、山の折敷に据えて出した。主人がもてなしだといって、芋と蕪菜を味噌汁にした中に、見なれないものがある。案内人が心得ていて「それは秋山の名物の豆腐です」と言う。豆を挽くことはするが、おからを漉さないので味がない。

食べ終わってから主人が「茶の間の旦那(秋山の言葉で、人を敬って茶の間の旦那という。茶の間を持っている人ということだろうか)、どっぷりに入らず」と言う。この言葉がわからなくて案内人に聞くと、「据え風呂にお入りなさい」ということだった。据え風呂を「どっぷり」また「居り湯」ともいう(秋山で据え風呂桶を持っているのは、この家とこの家の本家だけだという。この地の人は、たまには冬もかかり湯を使う。外から帰っても足を洗うことをしない。あの筵の上なのでそうするのだろう)。風呂に入ると、ふつうと変わったことはない。道の疲れも忘れてうれしく、もとの炉の横座に戻った(囲炉裏の横を上座とするのは田舎の習いである)。ここにはやかんもあったので、用意の茶を従者が煮たのを飲み、持ってきた菓子をあの三人の娘にも与えると、三人は炉に腰かけてあぐらをかき、足を灰の中へ踏み入れて、珍しがって菓子を食べる。炉には柱にもなりそうな木を惜しげもなく焚きたてている。その火影に照らされたのを見ると、末の娘は色が黒く太っていて器量がよくない。時々裾をまくりあげて虫を取るのは見苦しいが、恥じらうようすもない。二人の姉は色白で、玉を並べたような美人である。菓子を食べながら顔を見合わせてほほえむ面ざしは、愛らしさがこぼれるようだ。このような一対の玉を秋山の農夫の妻にするのはあわれで、琴を薪にしてすっぽんを煮るようなものだ。主人は里のこともよく知っていて話の通じる老人なので、土地の風俗を尋ねた。その語ったあらましをここに記す。

○この地は近年、年貢のことを聞くようになったが、米や麦がとれないので、わずかな年貢を納める(鐁役〔かんなやく〕という)ようになり、信濃と越後のよその村の名主の支配を受けている。檀那寺も決めたが、冬は雪が二丈あまりも積もって人の行き来も絶えるので、そのとき人が死ぬと寺に送ることができない。この村の山田という姓の助三郎という者の家に昔から伝わる「黒駒太子」という掛け軸があり、これを借りて死人の上に二、三度かざし、これを引導として内々に葬る。寺を決める前は、昔からこれで済ませていた(秋山には山田と福原の姓しかない。右の助三郎は山田の総本家である。太子の画像というのは、太子らしい人が黒い馬に乗って雲の中にいる絹地のものだという。私は助三郎の家へ行って掛け軸を見せてほしいと頼んだが、正月と七月のほかは拝ませないといって許さなかった)。

○この地の人は、上等の食事は粟に稗や小豆もまぜて食べる。下等の食事は粟ぬかに稗や干し菜などをまぜて食べる。また栃の実を食料にする。

○婚姻は秋山十五か村に限って、よそには求めない。女がよその土地で夫を持てば、親類は縁を切って二度と会わないのが、昔からの習わしである。

○秋山じゅうに寺院はもちろん、庵もない。八幡の小さな社が一つある。寺がないのでみな字が書けない。たまに心がけのある者が里から手本を手に入れて、いろは文字を覚えると、その人を物知りとして尊敬する。

○山中なので蚊がいない。蚊帳を見た者はまれである。

○深い山奥の土地なので、蚕はもとより木綿もとれない。着るものに乏しいことは察せられよう。

○山に「いら」という草がある。その皮をこしらえて麻の代わりに使う。

○老人がこう語ったとき、私はいらの形をくわしく聞かなかったが、あとで考えると、いらとは蕁麻(いらくさ)のことだろう。蕁麻は本草書に見える草の名である。「麻」の字がついているので、麻の代わりにも使えるものなのだろう。ただし毒草だと書かれている。また「山韭」というものも同じ書に見える。これも麻の代わりにできるものである。にらを「いら」というのだろうか。草の形を聞かなかったので決めがたい。

○秋山の人はみな冬も着たままで寝て、夜具というものがまったくない。冬は夜通し炉で大火を焚き、そのそばで眠る。ひどく寒くなると、よそからわらを手に入れて作っておいたかます(わらの袋)に入って眠る。妻のある者はかますを広く作って、夫婦で一つのかますに寝る。

○秋山で夜具を持っている家は、この老人の家とほかに一軒だけである。それも、あのいらで織った布にいらのくずを入れて、綿入れを少し大きくしたもので、泊まり客のためだけのものだという(私はここに一泊したとき、この夜具で寝たが、中の糸くずも裾に落ちて袷同然のところが多く、とても体に添うものではなかった)。

○わらが乏しいので草鞋をはかず、男も女も裸足で山でも働く。

○病人があれば米の粥を食べさせて薬とする。重いときは山伏を迎えて祈らせる(病気を祈らせるのは『源氏物語』にも見える古風である)。

○鏡を持っている女は秋山じゅうに五人いるという(「松山鏡」の故事が思い当たる)。

○この地の人はみなまじめで温厚で、人と争うことがなく、色欲に薄く、博打を知らない。酒屋がないので酒を飲む人もいない。昔からわら一本でも盗んだ人はいないという。まことに肉を食う人の住む仙境である。

○こうして翌日は「やぶつの橋」というのを渡って湯本に泊まり、温泉に入った。その次の日は西の村々を見て上結東村に泊まり、猿飛橋を渡り、その日は見玉村に泊まって家に帰った。いろいろ記すべきことはあるが、文章が長くなるので載せない(『秋山記行』二巻を編んで家にしまってある)。

○栃(本字は「橡」)の実の食べ方を老人に聞いたので、ここに記して凶作の年の心得とする。栃の実は八月に熟して落ちるのを拾い、煮てから干し、手でもんで粗いふるいにかけて渋皮を取り去る。すのこに布を敷いて、粉にしたものを置き、よくならして水を打って湿らせ、敷いた布で包んで水に浸しておく。四、五日して取り出し、絞って水を切り、干しあげる。その白いことは雪のようだ。これを粟や稗などにまぜたり、栃だけでも食べたりする。また餅にもする(餅にする栃は別の種類だという)。楢の実も食べる。その方法は栃に似ているという。

○この秋山に似た山村はほかの国にもあると聞いているので珍しくはないが、自分の目で見たのでここに記した。

○秋山の産物は、木鉢や曲げ物の類、山折敷、菅縄、板の類である。秋山には良い材木が多いが、村の中を流れる中津川は曲がりくねって深い所と浅い所があって筏を下しにくく、また牛馬を使わないので材木を運び出しにくい。財を得ることがむずかしいので、天然の貧しい土地である。

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