四十一 狐火

北越雪譜 原文
原文現代語訳

酉陽雑俎(いうやうざつそ)に、狐髑髏(どくろ)を戴(いたゞ)き北斗(ほくと)を拝(はい)し尾を撃(うち)て火を出すといへり。かの国はともあれ我がまさしく見しはしからず、そは下(しも)にいふべし。狐は寒をおそるゝ物ゆゑ、我里にては冬は見る事稀(まれ)也、春にいたり雪のふりやみたるころ、つもりたる雪中食にうゑて夜中人家にちかづき、物を竊(ぬす)み喰(くら)ふ事甚(はなはだ)悪(にく)むべし。人これを知るゆゑ、かれに盗(ぬすまれ)じとて人智を以てかまへおけども、すこしの間(ま)に奪(うば)ひ喰ふ、其妖術(そのえうじゆつ)奇々怪々(き〳〵くわい〳〵)いふべからず、時としてかれが来(くる)とこざるは鼠(ねずみ)のごとし。狐の妖魅(えうみ)をなす事和漢(わかん)めづらしからず、いふもさらなれどいふ也。我(われ)雪中にはあかりをとらんため、二階の窓(まど)のもとにて書案(つくゑ)に倚(よ)る。或時(あるとき)故人(こじん)鵬斎先生(ばうさいせんせい)より菓子一折(をり)を贈(おく)れり、その夜寝(いね)んとする時狐の事をおもひ、かの菓子折を紵縄(をなは)にて強(しか)と縛(くゝ)し天井(てんじやう)へ高く釣(つ)りおき、かくてはかれが術(じゆつ)も施(ほどこ)しがたからんと自(みづから)傲(ほこ)りしに、さて朝(あした)に見ればくゝしたる縄(なは)は依然(いぜん)としてもとのごとく、菓子折は消失(きえうせ)たるがごとし。猶(なほ)憎(にく)むべきは、くわしをりは人の置(おき)たるやうに書案(つくゑ)の上にあり、ひらき見ればおほひたる紙もそのまゝにて、くわしはみなくらひ尽(つく)せり、その妖(えう)をなしし事不思議(ふしぎ)也。或時(あるとき)は猫(ねこ)の声(こゑ)をなして猫を呼(よび)いだして淫(いん)し且(かつ)喰(くら)ふ。老狐(らうこ)は婦女(ふぢよ)を妖(ばか)して淫(いん)するもあり、淫(いん)せられし女はかならず髪(かみ)をみだし其処に臥(ふ)して熟睡(じゆくすい)せるがごとし、その由(よし)をたづぬれども一人も仔細(しさい)をかたりし女なし、皆(みな)前後(ぜんご)をしらずといふ、しらざるにはあるまじけれども、事を恥(はぢ)ていはざるならん。さて狐善(よ)く氷を聴(きく)と言(いふ)事、酉陽雑俎(いうやうざつそ)に見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪(すは)の湖水(こすゐ)は狐渉(わたり)しを視(み)て人渉(わた)りはじむ、和漢(わかん)相同じ。狐の火を為(な)す説(せつ)はさま〴〵あれどみな信(うけ)がたし。我が目前に視(み)しは、ある夜深更(しんかう)の頃、例(れい)の二階の窓(まど)の隙(すき)に火のうつるを怪(あや)しみその隙間(すきま)より覗(のぞ)きみれば、狐雪の掘揚の上に在(あ)りて口より火をいだす、よくみれば呼息(つくいき)の燃(もゆ)る也。その態(さま)口よりすこし上にもゆる事、まへにいへる寒火(かんくわ)のごとし。おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり、かれが肚中(はらのなか)の気(き)に応(おう)ずるならん、かれが気息(いき)常(つね)に火をなさゞるは勿論(もちろん)也。石亭(せきてい)が雲根志(うんこんし)に狐の玉のひかる事を云(いひ)しが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉といふ物の光ると常に見る狐火とは別なるべし。

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