友人が言った。「私の親しい者が隣村へ夜話に行った帰り道、道ばたに茶釜があった。ちょうど夏のことだったので、野良仕事の人が置き忘れたのだろう、それにしても性根の悪い者は拾って隠すだろう、持って帰って持ち主を探そうと、茶釜を手に提げて二町ばかり歩くと、しきりに重くなり、釜の中から声がして『おれをどこへ連れていく』と言う。肝をつぶして釜を捨てて逃げ去ると、狐が前を走って草の中へ駆けこんでいった、と言った。これは狐の一時のいたずらだろうが、このような化かしの術がありながら、人にだまされて捕らえられるのはどうしてか」。
私は答えて言った。「鉄砲で捕るのは論外として、うまい餌で捕るのは、狐は人がだまそうとしているのを知っていても、欲を捨てて慎むことができず、それと知りながらこれを食べて、かえって人をだまそうとして捕らえられるのだろうか。これは悪知恵が深いからである。狐だけだろうか。人もまたこれに似ている。悪知恵のある者は、悪いことと知りながら、こうすれば人は知るまいと自分の悪知恵を頼み、ついには身を滅ぼすに至る。色欲も財欲も、欲はどれも身を滅ぼすうまい餌である。至善の人は、道に千金を見ても、部屋で美人と向かい合っても、心がむやみに動かない。それは止まるところを知って、心が定まっているからである。こういう人は胸に明るい鏡があって、善悪を照らし見て良し悪しを知り、ひとりでいるときも慎む。これを『明徳の鏡』という。この鏡は天道さまから誰にでも与えられているが、磨かなければ照らさない」。私が若いころある儒学者の教えで聞いたことを、狐の話にかこつけて『大学』の筋にからめて遠回しにいさめたのは、尋ねた人が若く、しかも身持ちがくずれかかっている者だったからである。ここには無用の長話だが、思い出すままに記した。
さて、わが里で狐を捕る方法はいろいろあるなかに、懐手で捕る方法がある。どういう方法かというと、春先には積もった雪も昼のうちは柔らかいので、夜な夜な狐のうろつくところへ、麦などをつく杵を雪の中へ差し入れて、杵の太さの穴を二つも三つも作っておく。すると夜になってこの穴も凍って、岩の穴のようになる。そこに狐の好きな油かすなどを撒いておき、穴の中にも入れておく。夜がふけて人の寝静まったころ、狐がここへ来て、撒いておいたものを食べ尽くし、まだ足りないと必ず穴の中のものを食べようとして、体を縮め逆さになって穴に入る。入れておいたものを食べ尽くして出ようとするが、尾が少し出るくらいに作った穴なので、二度と出られない。雪は夜がふけるにつれてますます凍り、狐の力では穴を破ることもできず、出よう出ようとして、ついには力尽きてしまう。捕ろうとたくらんだ者はこれを見て、水を汲んできて穴に入れる。凍った雪の穴なので、すぐには水も漏れない。狐は尾を震わせて水に苦しむ。人はそばにいて、狐がまさに死のうとするときには必ず屁をひるので、それを避ける。狐が尾を動かさなくなったのを見て溺れ死んだと知り、尾をつかんで大根を抜くようにして狐を手に入れる。穴を二つも三つも作っておくので、折がよいときは二匹も三匹も狐を引き抜くことがある。これは凍って岩のようになった雪の穴だからできるのである。土の穴なら狐のお手のものなので、思うままにして逃げ去るだろう。だから雪国に限ることなので、雪のついでに記した。